自信を無くした自分と折り合いをつける方法
近年は自分より若い方々と仕事で話をする機会が増えた。
◆熱中時代
昔は会社の先輩や取引先の担当者等、関わる人のほとんどが年長者であり、自分は教わる立場である事が殆どだった。
それこそ一言一句聞き漏らすまいとメモを片手に全集中で打合せに臨んだものである。
思考を鋭敏にし、話の帰着点を前回りで想定し、不明点は残さないよう、しかし質問攻めにならないよう自分なりに考えながら会話を組み立てる…関係者との会話はビジネスの現場では修行のようなものだと考え、自ら進んで様々な人たちとコミュニケーションを取った。
そうする内に同時にコミュニケートする人数が1対多になり、集団の前でプレゼンテーションする機会も増えていった。難易度の高いプレゼンには一定の興奮も覚えつつ、全霊をかけて取り組んだ。
会議を主催し、時には有志メンバーを集めてプロジェクトチームを組み、社内経営陣に提案をぶつける事も増えていった。
充実感に充ちていたあの頃、自分の人生はどんな方向に進んでいるのか考えもしなかった。自分の努力が営業数値以外の何を産み、何を変化させているのかも、考える事は無かった。
だだひたすら目の前の仕事に打ち込み、その姿に疑問を抱える余地は無い。正に無我夢中。
私は兎に角負けず嫌いなので、ライバルが居るほど燃える。先輩社員含め社内全員ライバルみたいなものだ。あいつのイベントはすごい、行動力はすごいと言わしめたい。皆が認める結果を出したい。その為に黙々と企画書を作り、顧客を開拓し、現場を指揮し、担当エリア狭しと休日も返上して飛び回った。
それが社会人としての正しい姿だと信じて止まなかった。
◆今になって感じること
実際、私がどこまで”仕事”が出来ていたのかは分からない。今振り返っても自分が為してきた事には大した結果が出ていない、つまり誰の記憶にも残っていない所を見ると、きっと残念な結果しか残せていないのだろう。
私の思う”凄い”は他人にとって凄い事でなく、ともすれば何の価値もないのだという事を、30歳を超えたあたりから知っていった。
入社当時、居酒屋で定番の「あの時の○○は、実は私が企画したものなんだ」といった類の話は過去の栄光に縋る先輩社員のみっともない自慢話だと作り笑いで聞いていたものだが、よもや自分が酒に酔って若手社員に自慢話をするなんて….。
40歳を超え、少しづつ能力の衰えを感じ始めた。
頭の回転が確実に遅くなっている。企画、会議、打合せ、プレゼン…あらゆるシーンで私の思考を若手が追い抜いて行く。
妙な拘りや偏見がトレンドの追及を阻害する。
周りの話についていけなくなり、知らない、出来ないは「悪」だという妙な価値感と「負ける」事への恐怖心も手伝って、部下の何気ない会話にすらグっと身構えてしまうようになった。
頑張って周りについていこうと思うが、いくら勉強しても情報量が多すぎて全てを処理出来ない。
キャリアステップをしっかりと見据えていない行動や経験は…ついてこれない同僚や先輩たちを置いてドンドンと突っ走る仕事のスタイルは…ここに至ってダメージとして実感され蓄積され始めた。
自信は発言や行動をエンパワーする第一の要素だ。
自信を持っているからこそ、様々なシーンでリーダーシップを発揮出来る。これが揺らぐと先ず第一に仕事の上で口数や手数が減る。こうなると、(やや考え過ぎかも知れないが)今まで寡黙を決め込んでいた後輩や諸先輩方が会議でマウントを取りに来るようになったりする。不出来な私に対し容赦なく「負け」を突きつけているという感覚…元々社内でも孤立しがちだったスタンドプレイヤーは、孤独と言うより疎外感を感じるようになった。
そして今、私は自分への自信を急速に失いつつある。
何の対処もしないままではその内出社もままならない状況に発展しそうなので、この辺りで自分自身について考え直す必要がある。
家長として妻や子供達を養っていく身であるなら、何とかしてこの状況を変えなければならない…。先ず何から手を付けるべきか。
と言った調子で今、私は今1人の大人としてどう生きていくべきかを考え直す重要なポイントに立っている。
暇を見つけては今後の事や自分の能力、希望についてノートやブログに書き出したりと足掻いている。ここでは現時点までに思いついた、自信を取り戻すといった難解な課題の対策方法を考えてみたい。
◆私の”自信”の正体
そもそも私が持つ自信とは何だろうか。それはどのようなメカニズムで発生し、消えてしまうものなのか。
ここを整理しないと何も始まらない。
辞書によると【自信】とは「自分の価値・能力を信ずること。自己を信頼する心。」とあり、文字通り「自分を信じる」事だそうだ。
これはつまり自信の源泉となるものは外部に存在せず、常に自分の中にしか無いという事を指してはいないだろうか。
なぜ他者からの意見や態度、攻撃で自信がこうも揺らぐのか。
それは自己評価と他者からの評価にギャップを感じているからであろう。
特に評価の基準を他者との勝敗に求め、勝利する事で他人より優れているという判定が自分にとっての自信の源泉である場合、自信は勝敗の結果に委ねられる。
本来勝敗とは客観的かつ具体的なルールなり判定基準なりが備わっており、互いに公平な条件の下で優劣を決めるべきものであるが、自己評価上の勝敗とは得てして自己中心的なルールや価値基準、判断基準によって為される事が多い。
つまりただの”思い込み”である。
思い込みやマイルールでの勝敗判定は根拠や客観性に乏しく、時間の経過や周囲の変化、或いは他人の意見といった外部的要因であっさりと覆る。
自分の自信の脆さはここにある。
◆自信をなくした自分と折り合いをつける方法
周囲の環境の変化や他人の価値基準は計り知れない。そこに完全な客観性やルールを求め、強いる事は不可能だ。
つまり、自信の源泉をコントロール不可能な外部要因に委ねるうちは、これからも永遠に自信を取り戻す事は叶わないという事になる。
ここで最も必要になるのは自分の【意識の変換】だ。
価値基準は自分が持つもので構わない。自分が良いと思えばそれでいい。自分の評価は最終的に自分にしか出来ない。
勝敗の結果に縛られず、自分が成した事を自分なりの価値基準に照らし判定し、結果を承認してやればいい。
そして自分なりの価値基準は世の中をよく観察し、周囲の人間の意見を素直に聞き入れて決めれば良い。
自己評価と他者評価のギャップに苦しむのは、自信に過剰な部分があるからだ。なら過剰な部分を排除して常に学びの姿勢を崩さないというスタンスに変えればいい。いつまでも、生きている限り学びが止む事はない。
好意であれ悪意であれ、他者からの意見や批判など、その言動の根幹には自分にとって何か得るもの、教わるものがあるに違いない。
驕ることなく、消極的な思考を用いず、周囲との関係を注意深く見直せば、自身にとってネガティブな要素は見当たらなくなるだろう。
そうやって少しずつでも学びを積み重ね、磨かれた価値基準を以て自分を承認する事こそ、自信を取り戻す最良の方法であろう。
自信の源泉は自分の中にしか存在しない。
辛くとも、自分自身を定期的に見直す事でしか自信を取り戻す事は出来ない。
然しながら、この方法は費用を要しないばかりか単独で、誰にも迷惑をかけずに行う事が出来る。
ただスタンスを変え、自己を承認してあげるだけだ。
このように見方を変えれば周囲の景色が一変する事を切に願う。