ミドリ草BLOG

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擦り切れそうな人間関係摩擦と経営者のワガママ暴言に辟易としつつ自己嫌悪と闘いながら今日も自立を夢見て

団塊Jr.の役割(1)

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 元々かなりの人見知りであり集団行動が苦手で友人を作る事も出来ず、社内の飲み会等も敬遠しがちな私だが、近年ボランティア活動や社労士会を通じて職場の外で交友関係を築く機会に恵まれている。

 

仕事上での人間関係は必定、金銭や権限、立場などの利害関係がベースにあるような気がして友人として腹を割って話をする事が出来ず、自分の中では交友と呼べない。これが理想的な交友関係の邪魔をしていると感じる。

然しながら、少数ではあるものの現在、幸運な事に今までに持った事のない”人間関係の輪”に所属するに至っている。職場を離れ、共通の目的なり立場なりの下に人間関係が成り立つと、そこには今まで気付かなかった視点や学び、経験が多くある事に驚いている。

 

所で「類は友を呼ぶ」と言うが、私が所属する”輪”には同年代~40代後半の方が多くいらっしゃる。様々な立場でご活躍されているようだが、共通して話題に上るのは「団塊Jr.は疲れている」という事についてだ。

 

本稿では当事者の目線から「団塊ジュニア世代」について少し考えてみたい。

 

団塊ジュニア世代 概観

 団塊ジュニア世代とは現役層で突出した人口ボリュームを持つと共に、就職氷河期世代の先頭を走り、生活者としてバブル経済崩壊による痛手を最もシビアな形で被った世代であり「不遇の世代」等と言われている。

アベノミクス始動後は高成長を知らない世代の中でも特に取り残される傾向にあり、非正規雇用者の減少、活発な転職市場、賃金環境の改善などの就業環境の変化は団塊ジュニア世代よりも下の若年層を中心に恩恵が大きい。

団塊ジュニア世代の”不遇”が日本の経済、社会に及ぼす影響として、

 ・消費の勢いの弱さが経済成長の足かせとなっている

2020年代にかけて団塊ジュニア世代の親の介護の負担が増大する

・未婚で親と同居し、将来「親に支えられる」立場から「親を支える」立場となり、生活が困窮するリスクが高い団塊ジュニア世代は約33万人と試算されている

・2030年代後半以降は団塊ジュニア世代自身が高齢化し貧困に陥るケースが増加する恐れがあり、将来高齢貧困に陥りかねない人は約41万人にのぼると試算される

 等があるが、特に後二者が示す将来像はいずれも後期世代やバブル世代など上の世代と比べて数の上でも格段に深刻といえ、余波として財政面では団塊ジュニア世代の担税力の伸び悩みとともに同世代の貧困増加に対応するための社会保障支出の増大圧力が懸念されている。

 

上記は2019年に発表された日本総研JRIレビュー「団塊ジュニア世代の実情」要約からの抜粋であるが、良い事は何一つ書かれていない。労働者意識の変化に於いても若い世代との「断絶」が見られ、ミクロ視点に立った先般の記事でも述べた通り上下世代間の「狭間」の中で自らの「不遇」を感じながら様々な労働問題や災害を引き起こす要因にもなっている。

現役の中で突出した人工ボリュームがあり、40代半ば~40代後半と働き盛りの中心年代にあたる我々の実情は「大きな社会的リスク」そのものだ。

 

自分目線で見る団塊ジュニア

ひと口に団塊ジュニア世代と言えども皆同様に同じ辛苦がある訳では勿論無い。

同じ世代の中でも突出した成功者はいるし、自身の置かれた状況によって経験してきたことは様々だ。

事実私の職場に於ける団塊ジュニア世代(全員管理職)でも色々な方がいる。転職経験のない者、私のように複数社の転職経験を持つ者、出世頭であったが独立の為に退職した者、両親の介護で休職中の者。

社内を見渡した時、上記のような世代特有の凄惨さ、不遇さは同世代の者達から感じる事は無い。何故ならどの世代の人間にも同じような経験、悩みを持つ者は居るからだ。

ただ、確かにある種の共通する話題はある。例えば「今の若手は恵まれている」と言った類のものだ。

 

「自分たちは会社に入っても研修なんてしてもらわなかった。」

「自分の仕事を終えて帰ろうとすると怒られ、先輩社員の仕事が終わるまで帰してもらえなかった。(夜の12時を"テッペン"と呼んでいたが、原則テッペン前の退社には特別な事情が必要だった。)」

「土日祝日の出勤は当たり前で、自身の記録は110連勤だ。」

「ジョブローテーションから漏れ、同じ職務に20年以上就いたまま管理職になった。他拠点にどんな社員がいるか分からないままだ。」

挙げれば未だ未だ沢山あるが、今の若手は人事制度も労働法規も整備され、自分達が働いてきた環境と比べても随分恵まれているではないか。今の若い連中は付き合いも悪く、仕事が終わればさっさと家に帰ってしまう。仕事が出来なくても指導に当たった先輩社員の責任になる。社員教育に関しても十分に機会を提供されている。これ以上一体何の文句があるんだ?嫌なら会社を辞めれば良いではないか…。

 

この手の話題は、事更飲み会の席等では同世代社員からの同調を得やすい。そして自分の過去や自慢話に繋がっていくという規定路線を辿る。我々が若手の社員だった時代、散々先輩社員や上司から受けてきたこの手のアルハラ兼自慢話に我々自身も辟易とした経験があるのに、だ。

 

いつの時代も「今の若い奴らは…」は定番の酒の肴であるが、とは言え我々世代と新卒入社社員とは明らかに、且つ超え難い距離を感じてしまうのも事実だ。そして原因が時代であり今までの我々の経験から来るものである以上絶対に埋める事は出来ない。

同世代とのコミュニケーションの中で一定数以上の”同調”を得ると、さも自分の意見が正しい事のように思える。確証バイアスも手伝って自分の意見や考え方、キャリアの方向性が正しいものであるような錯覚に陥りやすい。ただ、我々は過去に生きているワケでは無く現代を生きている。本来は時代に適応し、自分自身をチューニングする必要があるが、ここで自分の正当化が進むと主体的に自身を適応させるための調整をすることが難しくなる。我々に最も必要なのは賛同ではなく「調整の為の反省」だ。

法改正や報道を真に受けただけの表面上の行動、言動の変更は反省・調整を伴っておらず、問題の根本解決には結びつかない事はおろか自身の許容を超えるストレスを産み、いずれ大きな労働問題を引き起こしかねない。例示の飲み会での愚痴は其の場凌ぎのコーピングに過ぎない。

 

「調整の為の反省」に欠かせない前提として、私は「自分の役割の設定」があると思う。

 

計画や企画を立てる時は先ず適切な目的を設定する必要があるが、それと同じだ。

 

団塊Jr.の役割(2)に続く