ミドリ草BLOG

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擦り切れそうな人間関係摩擦と経営者のワガママ暴言に辟易としつつ自己嫌悪と闘いながら今日も自立を夢見て

量×質=成果

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 2020年4月より、中小企業でも時間外労働の上限規制が適用される。

原則として使用者は雇用する労働者に対し、月45時間、年間360時間を超えて時間外労働をさせてはならないという義務を負う。

36協定上の特別条項を適用しても月100時間までとなる。その他複数月平均80時間、45時間を超える月数6以下といった条件が課され、違反の場合罰則が科される。

先んじて2019年4月より大企業にて適用されたが、その前年2018年度から2019年度の社会保険労務士業界トレンドは上限規制一色だった。

(因みに現在の社労士トレンドワードは同一労働同一賃金並びに電子申請対応。)

 

無駄な残業を減らして時間単位の生産性を上げ、所定或いは法定の労働時間内で作業を終了し、残った時間は自分や家族の時間として過ごす。働き方改革の中で叫ばれたWLBの実現の一端を担う施策である。

当社は労基法の基準上大企業扱いであった為、2019年4月より規制の適用を受ける事となり、同年より残業規制の為の施策を強固に推進した。現場からは多大に不満の声が上がったが、そこは「法律上」の規制である事を根気強く説明し、無理にでも納得してもらった。結果月45時間を超える時間外労働を行う者は記録上殆ど無くなり、年6回を超える者も現時点で居ない。

同様に対応に苦慮されている会社も多い事と思う。残業が多い事を嘆いていた従業員は、残業を禁止した途端給料が減るから困ると言い出す。作業を途中で投げ出して帰宅する者は流石に出なかったが、しかし現場のアウトプットはミスや杜撰さが目立つようにはなった。

 

時間外労働の上限規制は、確かにWBLに一役買う事は理解出来る。しかし「労働時間の上限が一律に規制される」という意味をもう少し考えてみる必要がある。

本稿では時間外労働の上限規制がもたらす別の側面を考えてみたい。

 

労働時間=量

 成果は量×質の掛け算で決まる。

昔から学校や学習塾などで言われており、特に受験勉強シーズンにはこれを言われながら勉強に励んだ諸兄も多いと思われるが、これは仕事をする上での本質を突いた言葉でもあり、この場合「質」とは能力と解する事が出来る。

複数の者が同質のアウトプットを生み出す際、能力つまり「質」の差によって量は異なる。つまり労働時間に差が生じる。この量を一律に定めた場合、質が変わらなければ成果物に差が生じる事になる。

これは能力の差を労働時間でカバー出来なくなる事を指し、成果の差は結果として人事考課なりの評価に繋がる。

勿論仕事の全てに於いてこの理屈は合致しないだろう。質や量で測る事が出来ない種類の仕事も多数存在する。然しながら全く的外れというワケでもない。

定量で、且つ平均的な身体能力や思考能力を要する仕事も職場には多い。であるならこの手の仕事に於いて、上記の公式による成果の差が生じる。

繰り返しになるが、成果の差を埋める為に労働時間を増やすという方法は使えない。同様の成果を生むためには「質」つまり固有の能力を何とかして向上させる以外方法が無くなる。

「量」が一定である条件の下一定の成果を生むことが出来る人は評価されるが、カバー出来ない人は何時まで経っても評価される事は無く、社内格差が狭まる事は無くなってしまう。

 

また、個人の能力の発揮度合いは与えられた職務内容に対する適正や得手不得手、置かれた労働環境や体調等様々な要因によって左右される。よって、限られた時間内で可能な限り生産性を高め、同質の成果を生み続けてもらう為には、使用者は最適解である人員配置と人事制度(ソフト面)や施設・設備(ハード面)両面での労働環境の整備が急務となり、労働者側も仕事をする上で最高のコンディションを保つために日々の生活環境を見直し、規則正しく私生活を送る努力をしなければならない。

油断による私傷病や、増して飲みすぎによる2日良いなど以ての外であろう。

必定、制限を設けると何処かに必ず影響が出る。果たしてこの影響は我々が甘受できるものだろうか。

 

量=勤務経験

 仕事を処理する能力は職務経験量によって向上する。アマチュアと熟練の差、である。

私はこれまでに数社の会社を渡り歩いたクチだが、どの会社でも入りたての時は先輩社員のように仕事を処理できず、細かな事務作業に於いても散々無駄に時間を使った。しかし数か月も経てばその会社独自の事務手続きや風習にも慣れ、既存社員と変わらないスピードで物事を処理出来るようになる。職務の範囲が広がり新たな仕事を任された際も最初から先任者のようなスピードで処理できるワケではない。最初は時間を要するが、その内に仕事の処理に必要な能力を獲得し、慣れも手伝って先任者同様の時間で成果を出すことが出来るようになる。かようにして会社の中で仕事上の能力を向上させて行くのが一般的であるが、新卒入社や第二新卒入社の者はどうだろうか。

途中入社のように業務と能力をマッチングして採用する場合はいざ知らず、社会人1年生である彼らは仕事を処理する能力をそもそも備えていない。

勿論、会社も採用当初から新卒入社社員に対し現役社員張りの成果を求めたりはしない。数年という時間を掛けて教育・指導し、現役社員同様の成果を生み出せるまで育成した上で現場に本格投入する。

然しながら投入されたての社員と最前線で働く30台社員との能力差は歴然であり、同様の成果を求められても難しい。投入当初はありったけの「量」を使い「質」をカバーしながら成果を出す。そして経験を積み能力を獲得する事で「質」が上がり、一定の成果を生み出すための労働時間は減少する。これは言わば企業で働いている誰もが通る通過儀礼のようなものである。

 仕事である以上我々はどんな立場であれ成果を疎かにする事は許されない。

然るに我々は任された仕事に於ける自分の能力の段階に応じて「量」と「質」をバランスよく使い成果を一定に保つ必要がある。こと、勤務経験が浅い間は顕著に「量」「質」にバランスの差が出てしまう。つまり時間外労働が慢性的に増える。

(新人を放置して労働災害を引き起こす事が無いよう、能力獲得に向け正しく導く管理体制と指導方法が存在する事が前提であるが)


労働時間の上限が制限されると、経験時間当たりでより高く能力を成長させる事が出来る人間が優秀と言う事になる。要領良く仕事を運ぶ人は評価されやすいが、逆に時間を掛けて能力を獲得するタイプの人間は評価されにくくなる。

人間の能力は経験時間と正比例して右肩上がりに直線的に伸びていくものでは決してない。人によって様々なS時曲線(ロジスティック曲線)を描く。最初は周囲の人間より時間が掛かっても、ある時点から急激な成長を見せる者も沢山いる。

「量」が規制された今、彼らはどのような評価を受けるのだろうか。

 

「働きやすい」とは

  働きやすい職場の条件の一つとして「物理的な拘束時間の長さ」というものがある。

 確かに約束された拘束時間が短ければ、仕事の後の自由時間も確保しやすく、日常生活上予定も立てやすい。だが、時間を短く設定且つ成果も求めない会社は存在しない。仮に成果のレベルが低く設定されているのであれば、賃金もそれなりという事になる。

要は、就労時間の上限を設定しているという事は成果を生む為の自己裁量的条件を制限し、限られた条件下で一定の成果を求めるという事だ。これは「働きやすい」と言えるだろうか。

 

思うに、働きやすさとは「裁量」の範囲の広さにあると思われる。

ある仕事を与えられた際、結果(成果)に至る過程を自身の持つ能力や時間、場所等のリソースを自分の判断で適正に配分し、仕事を進める裁量。

単位時間当たり生産性の向上には、今以上に自由な、そしてドラスティックな発想が必要になるが、こうした裁量の広さこそ自由な発想を生み、別の角度、視点からのアプローチを検証することに繋がる。多種のリソースを自由に使って自分なりの成果の出し方を研究する事も可能になる。

 

労働時間の上限を法律で縛るのは、ブラック企業と呼ばれる凄惨な労働環境で労働者を酷使する一部の者達を規制する為には有効であるが、別の側面として自身の持つリソースを制限され、生産性を下げる要因になり得ないだろうか。

我々労働者は「量」を自由に使えなくなった。

ならば「質」を上げる為に自己努力し、これに「自分の時間」を費やさなければならない。