脱!社会でも良いんじゃね?

脱!社会でも良いんじゃね?

労働者として「自己実現しながら働ける社会」とはどんなものかを考え、そのヒントを探るために悶々と日々考える事を備忘録として書くBLOG

予備校は戦場だ。

3,000文字チャレンジ5回目

 

テーマは「私を熱くさせたもの」

 

私は多分、本質的に「戦う」事が好きな性分です。部活では剣道に明け暮れ、毎日のように『勝負』を体験する事が何より快感でしたし、社会人になってからはプレゼンテーションの機会があれば誰よりも先に手を挙げ、競合と戦う事を楽しんでおりました。

しかし、「戦い」なら何でも好きという訳ではありません。所謂 ”ギャンブル性” の高いバトルは好きではない為、賭け事の類は一切手を出しません。テレビゲームでは格闘系に興味を示さず、専らロールプレイングゲーム一本です。俺TUEEEが確保されないと純粋にストレスが溜まります。

つまり私は「勝負」が好きという訳でなく「戦い」それ自体のストーリー性と、積み上げた者が勝つという公平な法則が働く事に胸が熱くなるタイプなのです。

 

そんな私を何より熱くさせるもの…。それは「資格の予備校」です。

(以下単純に”予備校”と称します)

 

資格の予備校TACの回し者ではありませんが、私自身TAC様には非常にお世話になりました。そして今現在も通わさせて頂いております(通算4年目)。

予備校に通い続けるには費用も時間もかなり掛かります。講義は原則週1回、休日の9時から夕方4時まで行われます。通学の時間も加味すると休日の1日が確実に失われます。平日と残りの休日の全ては翌週の戦場に向かうための準備、所謂勉強に費やされます。文具代や昼食代もバカになりません。こういった時間とお金という戦場に払われるコストに関して毎回家族を説得し、その都度呆れ顔をされ、半ば無理をしてまで受験生活を続けるのは、其処にこそ自分が理想とする「戦場」が在るからに他なりません。

 

私の大好きなTAC様データによると、現在TACで受講できる資格についての全国受験者数は約258万人(2017年度)であり、これは大阪市の法定人口約269万人に肉薄する数字です。TACで受講できない資格試験に挑む人数も加味すれば、毎年いかに沢山の人間が戦いに挑んでいるのかお分かり頂けるでしょう。

また、例えば社会保険労務士資格試験では受験者数が38,427人、合格するのは6.3%の2,413名(平成30年度)でした。並居る猛者を退けて上位6%に入った者が勝ったという訳です。

資格試験とは他者より積み上げた量が多い人のみ勝者となる単純かつシンプルな法則が働く戦いです。戦う為の準備も「勉強」のみと、これまた分かり易く潔い要素しか無いのが魅力です。

とにかく他人より高く高く知識と理解を積み上げるのみ。普段は泥臭く机に噛り付き、覚えの悪い頭を呪いつつ悪戦苦闘する毎日ですが、予備校という戦場に於いて私は自分なりの ”コダワリ” を以てムネアツな戦いに挑みます。

戦いが好きな者は戦場に於いて各々、並々ならぬ “コダワリ” を持っているものです。私も御多分に漏れず予備校での受講に関しては物凄い自分流の”コダワリ”があります。

 

コダワリとはつまり「ルール」其の物。私は今でも自ら課した以下のような数々のルールを遵守しております。

 

<ルール其の1>受講に持ち込むツールはその日使うテキストと筆記用具のみ。

 

教室を見回すと、持参物は皆それぞれ違います。例えばその日は絶対に使わない問題集や六法、バインダーや昨年使用したであろうテキスト等々を机いっぱいに広げて受講する人、水筒とお菓子を机に並べ飲食しながら受講する人等々、個性が現れます。

どのスタイルが良い悪いと言った話では無く、私は戦場に於いての潔さを”美しい”と思ってしまう変態なので、自身の持ち物は常にシンプル、少数である事を良しとしています。

 

<ルール其の2>テキストは蛍光マーカー塗れにすべし。

 

”敵を知り己を知れば百戦危うからず”という諺に則り、先ずは予習絶対主義を貫くようにしています。予習、受講、復習復習復讐復習…積み上げる度にテキストを蛍光マーカーで汚していくワケですが、積み上げた軌跡をテキストに刻むこの作業もまた楽しいものです。因みに試験が終了してもテキストは捨てずに戦利品として全て残してあります。

 

<ルール其の3>教室の真ん中より少し前の位置に席を取る

 

最前線で受講する人、逆に最後列で受講する人。席を選ぶのにも個性が出ます。幸いTACでは受講中に”当てられる”事はないので黒板が見えさえすれば何処に座ろうが同じです。私の場合好みの席が真ん中少し前だというだけの事ですが、それでも人気の講座になると講義開始の40分前には教室に入らないとベストポジションが獲得出来ません。その為、私は何が何でも好みの自席を獲得する為に開始50分前には教室に入る事を自身に課しています。

 

<ルール其の4>他の生徒とは絶対に話をしない

 

私が極度の人見知りだという事が大きな要因ですが、そもそも予備校は「戦場」です。講義を受ける他の生徒は全て「敵」なのです(ネットでは”養分”と称されています)。

敵と馴れ合うのは戦場に於いて有るまじき行為でしょう。抑々勉強とは1人でするものです。

 

 

細かく言えばまだまだ己に課した(つまらない)ルールはありますが、これらは壮大な”願掛け”みたいなものです。

心構えとしては受講申込終了時点から戦いは始まっています。戦いに挑む前に神に祈り願を掛け、己の全力を以て正々堂々と敵に挑む姿は宛ら騎士や武将のそれです。

士たるもの、これほど胸を熱くするものは他に有りません。

 

 

数年前、社会保険労務士資格試験の受験要件を満たす為に行政書士試験合格を目指して大阪の予備校にて楽しい戦場ライフを送っていた最中、福岡県博多市に4ヶ月の長期出張を命じられ、その間TAC博多校へ転校するといった事がありました。

予備校と言えば大阪某所TACと決まっていましたが、同じ系列の他の予備校では勝手が全く違います。講義に於ける雰囲気、進行、質…。全てに於いて大阪とは異なる、まるで別の予備校です。

一例として博多校の行政書士講座では大阪では有り得ない生徒同士の親交が盛んに行われており、講義開始前や講義が行われない休日には有志が校舎に集まり空き教室を利用して合同勉強会を実施。

講義日には終了後講師を交えて”飲み会”まで開催されていました。アットホームというより仲良しサークルといった雰囲気です。

 

転校し、講義に参加した初日、隣に座った年配の生徒さんが私に向かって

「○○と申します。大阪から来られたんですか?大変でしょう。色々分からないことがあれば何でも聞いてくださいね。私、ここ長いんで(笑)」

という優しいお言葉をかけて下さいましたが、勿論私は自身に課したルール通り他の生徒との会話を禁じておりますので軽く会釈をするに留めました。

受験資格を得る為の受験という回りくどいチャレンジ「行政書士試験」は、絶対に1発合格しなければなりません。同じ戦場に2年も居る時間はなく、大阪の主戦場同様、妥協は一切許されません。私は徹頭徹尾己で課したルールを遵守し、全ての会話を”拒絶”し、合同勉強会や飲み会には一切参加しませんでした。寧ろ飲む時間を勉強に回せよと、心の中では己の戦場を冒涜された気持ちになり腹立たしい思いすらありました。

敵と馴れ合うのは戦場に於いて有るまじき行為でしょう。抑々勉強とは1人でするものです。

 

とある講義日、生徒の中で最年長の者が件の合同勉強会案内の為に全員の連絡先を収集しようとし、氏名・携帯電話番号・メールアドレスを書いて提出するようにと記入用紙を全員に配布しました。

私はその用紙に自分の名前を書いたものの、しかし電話番号とメールアドレスは記入せず、「情報は非公開でお願いします」とコメントを付け加えて用紙を提出。

翌講義の日、全員の連絡先が書かれた用紙が配布されましたが、私の箇所は小池百合子都知事宜しく「のり弁」のように黒く塗りつぶされていました。

 

この「のり弁」を見た時、私は「勝利」を確信しました。

私は博多という異次元の戦場でも一切ブレていない。自分の戦場として、自分の思うように戦えている。だから今までと同じように”敵に負ける事は無い”。

 

「のり弁」が、私を熱くさせたのです。

 

(その後出張は無事終了し大阪の主戦場に戻り、結果として1発合格出来ましたが、博多校の皆様もきっとご健闘された事と思っております。)

 

敵を自分で選び、自由に、我儘に、自分が信じるスタイルで戦うことが出来る「予備校」。

積み上げた者のみが勝者となる単純かつ公平な「資格試験」。

バトルマニアの皆様、是非とも我が主戦場においで下さいませ。

 

貴方を熱くさせるものが正にここにあります。

 

 

 

 

調子良い時悪い時

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バイオリズム、という言葉がある。

 

バイオリズムとは、生命体の生理状態、感情、知性などは周期的パターンに沿って変化するという仮説、およびそれを図示したグラフを指す。「バイオリズム」は「生命」を意味する bio(バイオ)と「規則的な運動」を意味する rhythm(リズム)の合成語だそうだ。(Wikipediaより)

 

バイオリズムは生物に於ける、繰り返し規則正しく現れる状態の変化であり、日,月,季節,年などの単位を周期とする。1日を周期とするバイオリズムのうち代表的なのは睡眠である。

 

しかし実際には生物がこのようなバイオリズムを示す原因は科学的に実証されておらず、疑似科学と見なされている。

 

mental(メンタル)-rhythm(リズム)

 

最近では元の意味から離れて、単に体調の波を指して「バイオリズム」という言葉が使われる事が多々とある。

確かに、全く同じ日が1日として無いのと同じように、日によって体調や気分が優れない事がある。いくら科学的に証明されていなくても、確実に”波”を感じる。

 

私などは所謂”偏頭痛持ち”なので、朝目覚めて「いたた…今日は駄目だ」と思う日は一日を通して頭痛が続く。

いつも鎮痛剤で痛みを誤魔化しているが、仮に薬を飲まなければ昼を過ぎた頃には立っていられないくらい頭痛が酷い。

この厄介この上ない偏頭痛には前触れが無い上に、周期的に訪れる。特に5月6月、11月12月は週1~2日のペースで偏頭痛に襲われる。

救いなのは最長でも2,3日しか続かない事だ。毎度、偏頭痛が去った朝は頭上の暗雲が晴れわたり、雲一つない夏の朝空の如く非常に清々しい気分になる。

 

他にも、これは自身で認識している中で最も大きな課題の一つだが、私には『完全やる気ゼロ期間』というものが1年に1回、毎年きっちり決まって「春」に訪れる。

 

『完全やる気ゼロ期間』は本当に恐ろしい。 

 

仕事に於いてもプライベートに於いても、本当に何もする気が起きない。日々の習慣、というか反応で出社と退社の道程を辿ることがこの期間中で唯一自分に出来る積極的な活動だ。

この時期の私は、出社後、自席に座れば後は”置物”と大差ない。会議や打合せ等も余程重要なものでなければキャンセルするし、極力誰とも話をしないようにする。会社の近くの喫茶店に一日平均3時間程度の逃避もする。

何が原因でこれ程までにやる気が無い状態になっているのか、といった類を考える事すら億劫になってしまう。

同様に気分も相当落ち込むし、自信も失う。

出社して特に何もしないのに誰からもクレームが無いという事は「自分はこの会社に不要なのだ」という気持ちになる(実際そうかもしれないが)。

会社に不要な自分は大人として、いや社会人として価値の低い人間なのだろうと下卑た考えすら頭に浮かび、自宅では家族とすらも極力接触せず直ちに自室に籠りるようにして、とにかくすぐに寝る。

私の『完全やる気ゼロ期間』とは、斯くも闇の深い夜山中を歩むが如くであるが、これも幸いにして1週間程度で終わる。

 毎年の事だが、この”闇”を抜けた時、私は大きく安堵する。帰ってきた我が「やる気」達に甚謝する。

 

「貧乏」はするものではなく”味わう”ものという考え方

 

偏頭痛であれやる気ゼロ期間であれ、こういった変化は自分の一種のバイオリズムとして認識したほうが気が楽になる。ある種の諦めではあるが、周期的に訪れる”波”が確実に存在し、且つ抵抗出来ないのであれば受け入れる外ない。

幸いな事に悪い日は数日しか続かない。このように、”波”である以上必ず浮き沈みがある。沈んだ時には無駄な抵抗をせず、浮いた時に精一杯頑張ればいい。

それに、悪い時期は通り過ぎるのをただ待つだけでなく、考え方や過ごし方を工夫する事でダメージを最小限に抑えるどころか、何なら楽しむキッカケに変えることも出来る。

例えば、偏頭痛が到来した日はパソコンやスマートフォンの画面を極力見ないようにする。目のストレスに比例して頭痛が増すからだ。そしてこの頭痛のお蔭で生産性は極端に低くなる上に、無駄に抵抗しても頭痛からは決して逃げる事は出来ない。こうなると抑々仕事がやり辛くなる。なるのであれば諦めて仕事に対する手を積極的に存分に抜く。攻めのサボりだ。

やる気が無くなってしまう日は必要最小限の事以外はしない。ただ思いついた事しかしない。焦る必要は何もない。抵抗は無駄なのだ。

昭和の大名人五代目古今亭志ん生さんの金言が示す通り、見方を変えてみれば全く別のモノが見えてくる。

そう、ダメな時こそが「休憩」する最も適したタイミングなのだ。バイオリズムは身体が発信する自身の解放のサインだと捉えればいい。

 

その代わりに、体調が優れている時、やる気がある日は存分に活動すればいい。これが「メリハリ」だ。メリハリの利いた活動は生産性も効率も良く、1年を総計して活動量が変わらなければそれで良い。

少し体調が悪いくらいですぐにサボるのは確かに良くないが、自分を甘やかすのでは無く、自分自身の身体と上手く付き合う方法をいくつか知っておく事も、とても大事な事なのだ。

井戸は深く掘れ

3,000文字チャレンジ 4回目

 

テーマは「井戸」

 

「井戸」には用途や工法毎に様々な種類があるそうです。本稿では一般的な井戸の定義に即して「飲用・揚水井戸/堅井戸」に焦点を絞って所術します。

 

実家には未だ「井戸」があります。

高校を卒業し実家を出るまでの凡そ17年間、私はこの井戸から汲み出される水で生活しました。

 

我々の一族の大半は戦後の高度経済成長期に職と居住地を求めて、九州から兵庫県のとある田舎に移住してきたという歴史を持っております(なので実家では未だに九州弁+播州弁という独等なMIX方言で会話します)。

移住の際に複数戸の住居を取得しましたが、買い取った居住地が所属する自治体は当時水道設備が隅々までは普及しておらず、その地域(町)では各家庭の敷地内に設置された「井戸」を生活用水として利用する生活が標準的でした。

井戸水生活は当時別に珍しい事ではなかったと聞いています。

私自身生後間もなくこの兵庫一族と合流し、幼少時より「井戸水」による生活をしていた訳ですが、小学校を卒業するまでは特段不都合を覚えた事はありません。小学校自体は水道水を利用していましたが、水道水であろうが井戸水であろうが、「水」は同じ「水」であり、違いを意識した事もありませんでした。

ただ、中学校に入学する頃から少しずつ水質が変わり、雨の日には水が濁るようになりました。泥が混じるのです。

中学3年生の頃になると家族の中で頻繁に体調不良を訴える者も出てきました。水質調査を行うと、基準値を大幅に上回る”大腸菌”が検出され、井戸水は雑用水となりました。

飲用には貯水タンクを設置して給水してもらうという方法を取りましたが、高校に入学して暫く後、遂に水道設備を敷設。そうして我々の井戸はその役割を終えました。

 

今現在は涸れ井戸となってしまい、揚水井戸としての機能は収去されています。残るのは地表から僅か1メートル程立ち上がった円形の井管とトタンの蓋のみ。

役目を終えたとはいえ長年我々の生活を支えてくれた大事なライフラインであり、家族を守ってくれた井戸ですので、完全には撤去せず”井戸としての姿”は未だに残しております。

現在では兵庫に移住してきた我々一族の象徴として、身内から賽銭を奉納される"有難い存在"となるに至りました。

 

 

さて、そんな「井戸」はその孔底深度(深さ)によって ”浅井戸” と ”深井戸” に分類されます。

 

【浅井戸】

  • 孔底深度が浅く(地域により異なるが10メートル程度)不透水層(=岩盤)の上にある地下水を取水する。
  • 岩盤の上の地下水を利用するため周りの環境によって水質や水量が変化しやすい。
  • 岩盤を掘削しないことから工事費用が比較的安価で、掘削工事も短時間で済むため手軽に掘ることが可能。
  • 一般家庭の井戸はほとんどこのタイプに該当する。

 

【深井戸】

  • 孔底深度が深く(地域により異なるが20-30メートル程度)不透水層(=岩盤)の下にある地下水を取水する。(深い所の地下水を利用するという意味ではなく、固い岩盤の下の地下水を利用するというもの)
  • 岩盤の下の地下水は周囲の影響を受けにくく安定した水量と水質が得られる。
  • 一年中水温が一定で夏冷たく冬温かく感じられる。
  • 固い岩盤を掘るため工事費用が高額になりやすい。

 

一般家庭では ”浅井戸” が良く利用されているそうですが、水質や量、温度が安定しない為に飲用には用いられず、雑用水として使われる事が多いようです。(震災対策の一環で「災害協力井戸」として市町村に予め登録し、震災時は飲用以外で利用出来るようにしておく事を自治体が呼びかけています。)

しかし、井戸から得る水を”飲用”とするならば、それも大勢の人間の飲料水に対する需要の充足を目的とするならば、堅く厚い岩盤をも貫く程の掘削工事を行わなければならず、コストと工期、難易度は跳ね上がります。底には越えなければならない「大きな一枚の壁」があるのです。

 

なるほど石川理紀之助の「井戸を掘るなら水が湧くまで掘れ」という名言の真意はどうやらここにありそうです。

 

「井戸」は掘削する深さ(難易度)によって採取する水の性能と量が変わります。例えば小さい範囲の人間(家族等)を対象とし、本来水に望む用途を一部制限するのであれば浅く掘って出た水でも良い。

しかし多くの人間を対象とし、飲料水として利用するというニーズをも充足させるならば、つまり純粋な「水」を求めるのであれば、只深く掘り進むだけでは足りない。

「水が湧くまで掘れ」とは、堅い岩盤を貫き更にその下にある「純粋な水=最大の成果」が出るまで堀り進めよ、という意味なのです(たぶん)。

 

 

そういう意味に於いて、「井戸掘り」とは「自分と向き合う事」そのものだと言えます。

 

地表に立った我々は、今現在様々な問題や課題の中にいます。周囲には複雑に絡み合った利害関係や人間関係が犇めき合って存在し、生活環境は風切り音を発するかの如く急激なスピードで変化しています。

様々なものが目の前や後ろを高速で通り過ぎていく様はまるで都市部を襲う巨大な竜巻の最中さながらです。

このような環境下、”ぼーっと突っ立っている” のは得策ではありません。全員まとめて上空へ巻き上げられ、挙句バラバラにされてしまいます。我々は傍観して立ち尽くすのでは無く、逆境と『勝負』し勝って全員で生き残るための「強さ」を手に入れなければなりません。

 

私はこの「強さ」を手に入れるためにも「己の深堀り(自掘:じくつ)」が必要だと考えています。

 

自掘により「今、何が必要とされており、私には何が出来るのか」という事を各々自身で考え、課題を抽出し、仮説を立て、解決法を考え、目標を設定する。井戸を掘る様に少しづつ考えた方法を目標に向かって実行する。

 

掘削が浅いうちは周囲からの雑音が絶えず聞こえます。激しい雨風に晒されたり、時には別の勢力から圧が加わったりもします。そんな周囲からの悪影響により、せっかく自掘して建てた目標や信条に自信が持てなくなり、正しいと信じることが出来なくなってしまうと、掘り進む事を諦めてしまいます。

途中までは掘削したのだから、止めた時点でも何かしらの結果は出ます。「水」は出なくとも、得た経験を以て別の何かに挑戦できるでしょう。

もし「水」が出た(成果が出た)のなら、「濁り」を注意深く確認し、使えるものであれば恩恵を周囲に及ぼすことが出来ます。但し浅い孔底では成果が安定せず、得るものもいずれは枯れ果ててしまうかも知れません。

 

雑音や圧を排除し純粋な目的に迫ろうとするならば、そこには大きな壁が行く手を阻みます。岩盤はとてつもなく大きく、一筋縄ではビクともしない強度を誇り、いつ貫通できるか分からない厚みを持っています。

 

これを突破した人々のみが、皆を救う「水」つまり大きな成果を得るのです。

 

口径1メートル程度の井戸を掘削する作業を想像するとき、それは孤独で暗く、辛いもののように思えます。正に「自分との闘い」とは孤独なものです。最大限の努力が報われず、敗退してしまう可能性もあります。

しかし今は同じ方向を向いている人々が色々な姿形で繋がり合い、意見を交換しながら賑やかに目的地に向かうことができる世の中です。江戸時代の井戸端会議から長い時間をかけ、先人達の深い井戸から得た知見や技術により我々のコミュニケーション環境は大きく進化を遂げています。

 

井戸を掘るなら水が湧くまで掘れ。

 

諦めずに自分を信じて最大の成果を目指せ、というこの名言に沿う行いを、今は気の合う仲間同士で実行出来る(かもしれない)素晴らしい環境もまた、我々の時代にはあるのです。

 

だから、何も恐れず信じた道を掘り進め、我が子供たち。

 

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あと1週間と少しで我が家の長男は高校受験。

志望校を決めるまであれこれスッタモンダしましたが、漸く本人が行きたいと望む高校が見つかり現在必死で追い込み受験勉強に取り組んでおります(ガックンガックン居眠りしながら)。

彼と彼の友人達、そして私の妻や子供達がきっと大きな成功を掴み上げるであろう事を願って止みません。

 

 

 

会社が死ぬ理由

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「一体、君はこれからどうなりたいのだ?」

 

先日我が社の社長が我々総務部の管理職を招集し、次期人事異動について述べられたが、異動対象者の中にシステム管理担当者であるAの名前があった。次期よりAを営業部に異動させると言うのだ。

現在総務部の中では機械系の知識を有する者がAの他におらず、彼の異動は我が部署にとって相当大きな痛手となる。

総務部長はすぐさま反論に出たが、社長は意に介さず本異動を「Aの成長の為であり、君たちの成長のためでもある」と説明した。これに納得できない総務部長がキレ気味に、「納得できません!」と、珍しく大きな声を上げた。直後、社長が総務部長に放った発言が冒頭の一文だ。

 

「わ、私は…人の役に立つ仕事がしたいです。」

 

総務部長のその返答に、社長を含めその場にいた全員が一瞬茫然とした。質問に対する答えになっていない。社長はこれからの総務部の在り方を問うている。

が、今考えてみればこの時点で総務部長は思考停止に陥っていたのだろう。

専門職である我々バックオフィススタッフに於いて、考える専門家である経営トップの前で思考停止に陥るのは非常にマズい。

結局その後、少し手続き上の確認をした上でAの営業部への異動は決定した。

 

自席に戻った後、総務部長の「人の役に立ちたい」といった発言を思い出して、私は少し安心した。というのも、我が社の総務部長は絵に描いたような堅物で、正に「リスク回避の鬼」である。”石橋を叩いて渡る”というより”橋があれば渡らない”といった具合でリスク管理と回避に関しては徹底している。

総務部長の前ではリスク管理の名の下「ルール遵守」が絶対だ。感情や感傷の余地は一切挟んではならない。全ては「規定」に則って処理されるべきであり、危険は絶対に侵さない。

正に機械のような人だ…と感じていた。

そんな人がまさかパニくって「人の役に立つ仕事がしたい」などと部下の前で言うとは…。

 

会社は様々なルールに基づいて活動する事を与儀なくされるが、何より”法律”に則って運営されなければならない。違法な経営が明らかになれば、会社の生命は途端に危険に晒される。世の総務部長達はこういったリスクから自社を防衛する為に自らを「鬼」と化して嫌われ役を引き受け、日々の業務に取り組んでいる。それは我が社も例外ではない。

そんな「鬼」の人心に少し触れる事が出来たことで少しホッとしたのだが、同時にある「疑問」が湧いた。

 

本稿ではその ”疑問” について考えてみる。

 

総務部(管理部)のミッション

 万人の知る所ではあるが、一般に総務部/管理部が担うコーポレート機能としては下記のものが挙げられる。

  • 人事
  • 経理
  • 総務
  • 法務
  • 財務
  • 広報
  • 情報システム

バックオフィスの形態は会社の規模や組織形態、組織に対する考え方等により様々で、機能の有無や携わる人数、業務の難易度、部門の括り方はそれぞれ異なる。小規模な会社では社長一人が全てを担っている場合もある。

例えば我が社の場合では法務、財務、広報の機能は無い(専門スタッフを配置していない)し、総務と経理を合わせて1つの部門として扱っている。

だが、どんな形態であっても各機能においては専門的な知識や技術を要し、業務の特徴として”絶対にミスは許されない”

 

支払うべき給与が間違っていた、といったミスは実際よく聞く話だが、これは違法となるばかりか働いている従業員の生活や保障にも影響が出る。体調が悪い、又は休職中の従業員への対応を1歩間違えれば労災問題になりかねない。

従業員のすぐ後ろにはユニオンや労基署が控えている。

個別の営業スタッフでは解決が難しい権利問題や損害賠償に係るトラブルを処理するのも我々の大切な業務だ。対応を間違えれば訴訟に発展し、問題は長期化する。

等々、本当に些細なミスでも取り返しのつかない大事故に発展し、即会社生命を脅かす事態になりかねないという緊張感が日常の業務にある。しかも専門性が高い。

トラブルは常に我々の経験や知識の範疇を超え、知らない、分からない事の方が遥かに多いのに、それが致命傷に繋がってしまう。

勿論、各機能毎に専門家と顧問契約を交している。然しながら、先程言ったようにリスクは「日常業務」に潜んでいる。

我々が日常相手にしているのはステークホルダーや従業員等ではない。リスクと言う名の「恐怖」と戦っているのだ。

恐怖と戦うからこそ、我々は日々情報をフレッシュに保つ事で有事に備えなければならないし、自らの専門性を高める努力をしなければならない。知識が無ければリスク回避出来ない、と言うより恐怖に勝てない。安心出来ない。

しかし全員が各分野に於いて大学教授の如く専門家になれる訳は無く、またそんな必要性も無い。事故やトラブルを未然に防ぎつつ業務を遂行するには、既に安全安心が証明された「手順」と「ルール」に従って事務を処理すれば良いからだ。

決められた手順に従って間違い無く仕事を進める事が出来れば、又、決められたルールに従って意思決定していれば、無用な事故は起こらない。自分の感情や意志による先例の無い判断や処理、新しく導入するシステムや機械は何が起こるか予測がつかない。不測の事態を巻き起こすリスクなのだ。

そんな日々恐怖と戦う我々バックオフィススタッフが何より嫌うのは「変化」だ。

変化の先には見えないリスクが山程ある。

変化した先には先例のない、予測のつかない未来があり、コントロール出来ない。全てが想定外だ。然しながら変化した先でも我々はミスの無い業務遂行を強いられる。

そして、分からなかった、知らなかった、私のせいじゃないといった類の言い訳は一切通用しない。

だからこそ、我々スタッフは変化による未曾有の恐怖の対価として、それに見合う素晴しい未来を望む。リスクに見合う未来が無ければちょっとした変化であってもただのリスク、つまり ”恐怖” であると考える。

 

かなりアバウトな分析だが、総務や管理スタッフが融通の効かない堅物社員になる理由は概ねこんなところではないだろうか。

 

会社が死ぬという事

 

法律上、法人は法定された設立手続きを経て設立登記をする事によって産まれ、法定された精算手続きを経て精算結了登記をする事によって死ぬ。

しかし、中には活動を全くしていない法人も存在する。例えばその法人が株式会社であた場合、その会社は「生きている」と言えるだろうか?

経済活動をしていない以上、実質として「眠っている(休眠)」、または既に「死んでいる」といっても過言ではない。

同様に、活動はしているが流動的な社会の変化に取り残され、現在の経済規模を守らんとするも規模縮小を余儀なくされている数多の企業はどうだろうか。

守りの姿勢を以っても現状を維持できなければ縮小に歯止めが効かず、いづれは死んでしまう。

 

現在の社会は「第4次産業革命」の真っ直中だ。IoTやAIを用いることで起こる製造業の革新により、我々の生活や仕事のスタイルを始め、人間同士の関わり合いにも大きな”変化”の波が押し寄せている。

社会の変革は我々が追いつくのを待ってはくれない。よって全体が変化するのであれば、我々も変化せざるを得ない。

このような環境下で、変化を拒みルールや手順を絶対視する「守り」の姿勢は果たして正しいといえるだろうか?

これが先述した疑問の正体だ。

 

「管理の鬼」が必ずしも会社を救うとは限らない。リスクを恐怖としか捉えられないマネジメント至上主義である管理スタッフが会社で大きな権限を持ち、”恐怖”で支配し始めたとき、会社の成長は止まる。

現状のシステムや価値観を維持し、変化する事を放棄したまま100年後、いや10年後にも変わらず同じ水準の経済規模を守り抜ける企業は存在しないだろう。企業は常に変化に対応し、少しづつでも付加価値を産み続けなければ社会に存在し続けることが出来ないからだ。

そして昨今のような変化の激しい時代には適応行動に更に”スピード”が求められる。あっと言う間に変わりゆく社会の変化に対応しないままズルズルと現状維持を続けると、社会基準との断絶が大きくなりリカバリーが効かなくなる。

時代遅れになった会社に未来は無い。これは何より大きなリスクである。

つまりは 恐怖に支配された瞬間、我々の「死」が始まると言える。

 

バックオフィスの真のミッションとは

 

コストセンターと揶揄される我々バックオフィサー達の本当のミッションとは何だろうか。

確かに、企業が行う日々の営業活動を適正なものとし、社会のルールに乗っ取った運営を下支える為に色々と腐心する事も我々の大きなミッションである。時には融通が効かない頭でっかちな発言や行動もしなければならない。ダメなものはダメとハッキリ言える人間でなければ管理セクションでは使い物にならない。

また、業務の特性上機密情報を取り扱う機会も多い。頭の中は個人情報を含めリスキーな情報で一杯だ。然るに管理セクション以外の従業員との必要以上の馴れ合いは厳禁である。酔った勢いで要らない事までペラペラ喋るような人間はそもそも社会人として失格であるが、そんな人間が管理セクションに在籍すれば会社の未来に深刻な影響が出かねない。

そんな我々は、つまりは堅物であれば”良いバックオフィサー”なのであろうか。否、これは我々の一面である。

 

我々の真のミッションは、トライ&エラーを繰り返して進化しようとする会社のリスクを可能な限り低減することで ”変化を増長する” 事にある。

変化する事に対する恐怖を可能な限り排除し、安心して挑戦できる環境を整える事こそ我々コストセンターの役割だ。各セクションのスタッフが各々専門性を磨き上げる目標も本来はココにある。

 

「安心して失敗してこい!後ろには我々がついているぞ!」

と胸を張って言える者こそが”良きバックオフィサー”だ。

 

ルールや手順を決めて全員に守らせることだけが我々の仕事ではない。同じ会社で働く皆をあらゆる方面から支援する事で事業活動を活性化させ、会社を正しい未来へ導く事こそが我々の存在価値である。

 

恐怖に支配されて思考を止め、ルールに逃げてはならない。未来に立ち向かう為に、我々にはもっともっと”勇気”が必要だ。

 

バックオフィサーこそ激変する社会の変化に翻弄されず、「攻める姿勢」を忘れてはならない。

 

倒すべき相手は永遠に倒れない。

3,000文字チャレンジ3回目

 

テーマは「勝負」

 

スポーツの世界では個人であれ団体であれ勝ち負けがハッキリ出ます。どんなに頑張ろうと勝敗が結果であり、より優れた人間が勝者として称えられるシビアな世界です。シビアな世界は、私たちに沢山の事を教え、また強く育ててくれます。

 

私は小学校4年生から高校を卒業するまでの凡そ9年間、「剣道」で汗を流しました。先般のテーマではありませんが、青春時代は常日頃から見事な『フレグランス』を放っていたと思います。剣道部は我が高校でも不人気な部活の一つでしたし、異性からの受けも良くありません。しかしながら私自身臭いモテないなど些細な問題と、なかなか真剣に取り組んでおりました。

 

剣道は割とメジャーなスポーツです。競技人口は2014年時点で約170万人といわれており、この数字は「柔道」の約10倍に当たります。知り合いの中で数人は剣道部出身だったりしませんか?(因みに野球の競技人口は約690万人、サッカーは約480万人だそうです)。

メジャーなスポーツなんですが、剣道のルールを知っている方はあまり見かけません。

細かい部分はさておき、剣道は竹刀で面・小手・胴・突(打突部と言います)に有効となる打突を相手より先に決める事を競うスポーツです。1試合は基本的に3本勝負で2本先取した方が勝利となりますが、ここまでは割とメジャーなルールかと思います。

曲者はこの「有効となる打突」です。

どのような打突が有効となるかは試合や競技者のレベルで変わり、有効打突であるとの判断は原則として審判に大きく委ねられています。審判は原則3人で行い(三審制)、3人の内2人が有効であると認めれば、それが「有効な打突」として1本と判断されます。

ここで言う”有効な打突”とは、『気剣体一致の打突』とされ、充実した気勢、適正な姿勢をもって、竹刀の打突部で打突部位を刃筋正しく打突し、残心あるものと規定されています。

これを読んで ”どのような打突が有効となるか” が分かる人はいないでしょう。

実際経験者でも上手く説明できません。

しかしながらこの ”言葉や文章で表現する事が難しい事” 、竹刀を打突部に当てさえすれば良いといったワケではない所が他のスポーツと一線を画す”剣道の面白いトコロ”なのです。

 

全日本剣道連盟国際剣道連盟は剣道を「精神性の高い”武道”として扱われるべき」と主張しています。少々大袈裟ですが、剣道とは「ルール」より「精神」を重んじるスポーツです。

剣道では精神力を養い、修練を積み、相手を慮り、正々堂々と向かい合う事が求められます。

試合では「礼に始まり礼に終わる」事とされ、最初から最後まで礼節ある行動を求められます。1本取ってガッツポーズをしただけで、相手への礼節を欠くという理由により有効を取り消す、といった判断が下る場合もある程です。

礼節は競技者だけでなく、周囲の観客にも求められます。あまり試合をご覧になる機会は無いと思いますが、剣道の試合では声援や罵声がありません。静粛な環境の中、応援は拍手のみで行われます。

剣道の「道」とはつまり、人間形成の道です。勝敗だけにこだわらず周りへの感謝を忘れず修練に励む事なのです。

剣士を志す上で一番大事にしなければならないのはこの”修練”であり、修練によって自身が得るもの、つまり「相手に勝つこと」よりも「自分に勝つこと」のほうが重要です。

上達し勝利する為には誰よりも沢山練習しなければならないのは勿論、そうして勝利したとしても敗者の前で誇ってはならない。試合は常に一対一で行われるが、勝利は自分だけで為し得たものではない。逆に敗北の理由は自身の中にあると考える。

常に己を律し続ける事で自分を成長させる事こそ、剣道を通じて学ぶべき ”精神” であり、”面白いトコロ”なのです。

(有効打突が言葉で説明出来ないのは、長い修練で身についた”技”が相手に決まった時を有効とするものだからです。言葉上のルールが重要なのではなく、これは同じく修練を積んだ者にしか判断できないものです。剣道の試合風景を未経験者が観戦しても全く楽しめない理由がここにあります。)

 

所で、「自分に勝つ」というのは中々厄介なものです。

我々は根本的に”易きに流れる”生き物です。誘惑に弱く、自分本位であり、自己評価を甘くしがちです。「常に己を律する」のは言葉でいう程簡単な事ではありません。

スポーツの競技者は「もうこれ以上練習出来ない!腕が(足が・頭が)動かない…」といった状況でも、あと一歩踏み出す事で自分の限界値を上げ、ライバルより練習を重ねようとします。修練を終わらせる理由は自分の中では無く、相手や周囲の環境にあります。原則として人より修練を積み上げた者が勝利者となり、修練を諦めた者から順次振い落されていきます。敗北の理由を環境や才能の欠如のせいにして自分を超える努力を怠っている者は勝者とは成り得ません。

 

自分に勝つための訓練は理屈では出来ません。自信の限界を超える努力と結果、つまりは勝利を収めたという「体験」が必要となります。

厳しく自分を律し、日々修練を積んだ結果としての「勝利」を自分自身の成功体験として持つ事で、「自分に勝つ」事の難しさや喜び、達成感を得ると同時に「自分に勝つ方法」を習得する事が出来るようになります。

そうして習得した「自分に勝つ方法」は社会で生きていく上で非常に重要なスキルになります。

 

自分に勝つ事で、我々は我々が望む方向に成長する事が出来るようになっていきます。大きな課題に立ち向う時、何かを習得しようとする時、新しい環境に飛び込む時…。我々は常に自分で自分を超えられるかどうかを試されます。

勝敗が結果であるシビアな世界を経験した者達は、自分で自分を超えた先にこそ勝利があるという事実を経験上知っています。

「勝負」は、常に先ず自分が相手になるのです。

スポーツを経験していない者は自分との勝負に勝てない、といった事は勿論ありません。試しに「練習・修練」を「学習」に読み替えてください。受験勉強等でも同じことが言えるのです。己に勝つ訓練方法はスポーツだけではありません。

 

学生であれ社会人であれ、自分と「勝負」する機会は沢山あります。例えば何かの意思決定をする際にも常に「自分との闘い」が待っています。

しかし、あらゆる場面の全てに於いて自分に挑戦し、また、その全てに於いて勝利しなければならないのか…というと、そうでもありません。そういう生き方もあるにはあるでしょうが、さすがに疲れ切ってしまいます。

 

「大人になる」という事はつまり、”自分との勝負所” を見極めるのが上手になる、という事でもあります。

スルーできる難所はスルーで構いません。逃げて問題ない課題ならサッサと逃走した方が無難です。何でもかんでも全力投球、全力勝負では心と身体が持ちません。

「ここぞ」という時に自分と真っ向勝負し、確実に勝つという事が我々には必要になります。

 

冒頭の「勝負の世界」に於いて、効率的かつ効果的に自分との戦い方や勝利する方法を学べるという点では、どんなスポーツも同じです。私は剣道を通して精神を鍛える修練を行った事によって「忍耐」と「集中」を身に付ける事ができました。これこそ正に「私が私に勝つ方法」です。

忍耐と集中で自分から甘えや誘惑を切り離し、後一歩頑張る事で結果、つまり「勝てる」という事を経験から知っています。

 

社会人にもなると仕事の習熟度と労働密度・労働時間の増加量が比例し、働きながら仕事以外のフィールドで様々な挑戦を行う事は難しくなっていきます。それでも、未開の将来を切り開くために”したい事”、”しなければならない事”は沢山あります。

そんな忙しい日常の中でも我々は「勝負どころ」を見極め、自分の限界に挑戦し、持てる力を総動員して「己に勝つ」事が出来れば、より望む未来が獲得出来るという事を忘れてはなりません。自分を成長させるのは自分以外の何者もいないのです。

 

そうして苦難を乗り越え勝利した先には、更に強大な「自分」が立ちはだかります。

 

自分との「勝負」は我々が死ぬその日まで続きます。

 

 

「俺たちは努力して元の世界を再建しようとしている」

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我が社は現在、危機的な状況にある。

 

ほんの10年前までは1,000億円に手が届くか届かないか程度の売上規模を持つ企業であった我が社は、折からの不況と既存顧客の吸収合併、創業以来取引を行っていた大口顧客の規模縮小等により安定的に年間数億円規模で売上高を減少させ続け、今期の決算で、ついに営業利益赤字をたたき出した。

 

勿論、売上高減少の傾向が予想された年からは現事業を水平展開し、新規顧客を開拓する等新しい仕事の獲得を目標として営業部は ”それなりに” 頑張ったが、結果として数字が以前のように回復する事は1年度として無かった。

 

今期の決算で営業利益赤字に陥ったというニュースはすぐに全社を駆け巡った。従業員は口々に「ウチの会社大丈夫か?整理解雇があるのか?」と方々で言いあった。だが、自席に着いて行う業務の内容が変化する事はない。赤字の会社になったからといって仕事場の日常風景がそう大きく変わる事は無いのだ。

経営的な危機に陥ったとしても、別に社内で赤ランプが点灯し警報が鳴り響くわけでは無い。

 

そうして売上高を減少させ続けた大きな理由はやはり、”みんな特に努力しなかった” 事だと考えられる。

 

”体感できない変化”の恐怖

 

 人は少しづつ変わっていく環境の変化を認識できない。

例えば平穏な日常の中で、朝目が覚めて昨日と異なっている点をしっかりと認識できる事柄は幾つあるだろうか。

いつもは居るハズの時間なのに家族の内の誰かが居ない、朝ご飯は通常お米と味噌汁と一品なのに、今朝に限って菓子パンだった等、自身の周囲半径数メートル以内の変化なら確認し認識できる。しかし一歩家を出て、例えば隣の家のおばあちゃんがインフルエンザに罹ったといった事は分からない。当たり前だ。

また、変化が僅少であった場合等も認識出来ない。暦上の区別は別として、少し体感温度が上昇したくらいでは、冬から春への季節変化としては認識できないものだ。

我々は自身で体験した差異をはっきりと確認出来て初めて環境の変化を認識出来る。今更何を…と思われるくらい当然の事だが、この常識にこそ ”恐怖” が潜んでいる。

 

先日とある同僚が、

「20年前に入社した時は机にパソコンなど無く、紙と鉛筆で仕事をするのが当たり前だったが、今はノートパソコン持参で会議に参加し、一人一台スマートフォンを支給されている。個人が仕事をする環境は随分変わった。これから更に20年後はどういった環境で仕事をしているか想像がつかない」

といった発言をした。

一昔前からすれば想像だに出来ない大きな変化だが、この変化も、やはりある日突然訪れたワケではない。毎日少しずつ、日常の中で確認できない変化が積み重なった上での結果だ。

 

世界は少しづつ、でも大胆に変わっている。

 

20年も経てばさすがに60歳を超える。なら定年を迎えているだろう、といった今の常識は変わっている可能性が高い(というより間違いなく変わっている)。

 

変化は良いものばかりではない。

少子化・高齢化も変化が見えづらい「静かな有事」の中で対応できなかった、あるいは対応しなかった結果としての課題だ。

ある朝目が覚めたら全員高齢者になっていた、というくらい劇的な変化であれば、どんな人でも変化を確認、認識し危機感を覚えただろう。

 

ほんの一例ではあるが、試しに下記をご一考頂きたい。

 

「我が国は少子化が進み、この先人口が減少する」

 

こう言われてどれ程の焦りや危機感を覚えるだろうか。

 

統計分析上の数値では、2017年に1億2,653万人であった日本人は2065年、つまり今から46年後には8,800万人まで減少すると予想されている。

3,853万人”減る”事になるが、これは関西地方、中国地方、四国地方と北海道を足した総人口と同じくらいの数だ。

 

現政権は合計特殊出生率を現在の1.45から1.8まで回復させようと様々な取組を行っている(因みに戦後日本(1947年)時点の出生率は4.54)。

この1.8という数字までに回復すれば人口減少が止まる…ワケではない。合計特殊出生率は女性が生涯に出産する子供数の推計値だ。つまり最低2(正確には2.07)でトントンなのであり、1.8では”減り続ける”事実に変わりは無い

 

そして人口の減少は様々な問題を引き起こす。例えば労働力の減少は言うに及ばず、これから「絶対的な後継者不足」に陥る。競争力も低下し、社会全体のレベルが下がる。警察や消防、医療等公益サービスに従事する人間も減る。社会的インフラ事業も然り。

急速なな労働人口減少問題の対策の一環として先刻「入管法」の改正が為されたが、外国人労働者が急増した未来で一体誰が現在の治安レベルを維持してくれるのであろうか。

外国人労働者=犯罪者と言いたいワケではない。ただ、外国と日本では法律も常識も文化も認識も違う。犯罪では無いにしろトラブルは確実に増加すると予測するものである)

 

このように、今後たったの50年足らずで我が国の社会は急速に活力を失っていく

この問題には更に「高齢化」という別の大きな問題が絡んでくる。

ここまで知っていながら「人生100年」を平穏な気持ちで受け入れられる人間は一体何人いるだろうか。

 

(毎日、新聞等を読み、上記のような課題に関するフレッシュな情報にアンテナを反応させている諸兄は別として)上記の事実を知った前と後では焦りや危機感の度合いが変化したのではないだろうか。我々が日常の中で正確に確認出来ないだけで、これらの変化は日々確実に進行している。

 

”何もしない=未来は無い” という事実

 

上記の問題以外にも様々な課題が我々を取り巻いており、日々少しづつ我々に這い寄ってきている。

誰かが目に見えるように赤ランプを灯したり、ハッキリ聞こえるように警報を鳴らしてくれることは無い。

そして皆が変化を確認せず何もしないままであれば、我々には”確たる暗い未来”が待っている。

どうすればよいか、という問いには正確な答えはない。ただ、未来に適合できるよう自分を変化させたり、周辺の環境に対して少しづつ”良い変化”を促す力を加える事は出来る。

 

先例の我が社の場合、社内では確かに日常の変化は無い。しかし会社を取り巻く環境は激変する。銀行、税務署、帝国データバンク…。我々は主体的に変化を「知る」事で危機を予測し、準備しなければならない。これは個人であろうが国家であろうが変わらない。

「知る」ためには「努力」する必要がある。危機がどこに潜んでいるのかを注意深く観察し、日々溢れ出る情報から必要なものを選別し、又は自主的に学び、得た知識や情報を整理し、分析し、予測する。

予測した未来について他者と意見を交わし、また公表されている事実と照らし合わせたりして精度を磨く。その上で「自分に出来る事」を考えて行動に移す。

 

未来に対し、我々は自分で”赤ランプ”を灯し、危機意識を以て「知る」努力を怠ってはならない。

 

 

 

【集団浅慮】という見えない壁について

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営業時代、よく企画会議を開いてチームメンバーと意見を戦わせた。

 

コンペ案件では先ず売上規模や顧客の特性に応じて社内外から各種スタッフをアサインし、5~20名程度のプロジェクトチームを作る。

当社では原則として作ったチームの一部がプレゼンに勝利した後も存続し、引き続き業務にあたる事としている。自分たちで立てた企画案に責任を持たせ、また業務を遂行する上での”作ったときの想い”を重視しているからだ。

これはつまり長く一緒に仕事が出来る人材をアサインし、チームを作らなければならないという事になる。

コストを始めスタッフ各々の技量や仕事の仕方の特徴、リーダーに従う度合いを鑑みながらメンバー選定するのだが、これを誤ると、仮にコンペに勝利し仕事を勝ち得たとしても、すぐさま失注する危険性が高くなる。

金額が大きい仕事ともなればメンバー選定も慎重にならざるを得ない。然るに選定の段階から「上席」管理職をメンバーに組み入れる事になる。

こうして出来上がったチームの中では誰の発言が一番 ”重み” を持つだろうか。また、誰のどのような発言に重みをつけなければならないだろうか。

”発言の重み=役職の重み” という構図によって意思決定が為されてしまう事が起こってはいないだろうか。

 

目的を欠いた会議は害にしかならない

 

以前、記事の中で取り上げた「組織論 再入門」の中では「集団浅慮(グループシンク)」として集団による意思決定の4つのミスが指摘されている。

 

①同調行動

 集団で意思決定をする際に、必ずしも真剣に考えて個人的に正しいと思った意思決定をしていない状態。

マジョリティに斉一化され流されてしまうという現象。

事態の重要性を認識させると(自分事化させると)いい加減な同調行動が起きにくくなる。更に、透明性を確保する(挙手ではなく秘密投票にする等)と同調行動が避けられる。

 

②少数者の過剰な影響

振る舞い方や発言力によってパワーを得た少数派が徹底的に主張を繰り返して行うと、大多数派のあまりよく考えていない人間がどんどん付和雷同して増加し、同調行為も相まって集団としてある種の思考停止状態に陥る現象。デマゴーグなどが良い例。

 

③リスキーシフト(分極化)

2つの対立する意見があると、より危険度の高い方、ハイリスクなほうに一気に意思決定が傾く傾向の事。

「大丈夫であります!勝てるか勝てないかではなく、勝つのであります!」なんて言われると安易に「そうだ!」となる傾向を指す。

 

④過度な役割行動

自分自身はそんな事は思っていない、本当は自分の意見は正反対であったとしても、自分に与えられた役割や立場からすれば ”そういう発言をしなければならない” という自己規定に基づいて意思決定をしてしまう事。

明確に規定された役割を特定の人間がずっとこなしていると、その役割に沿った判断、言動しか出来なくなる。

 

(詳しくは「組織論 再入門:野田稔」をご拝読ください)

 

先例の会議等では役職が上位である者の発言が重要視されがちである。周りの参加者が上席の発言に”重みをつける”のだ。

役職の高い人間は通例、在社歴が古く経験値が多い社員である。

「なるほど、あの人が言うんやったら間違いないやろ」と、経験の浅い者が経験豊かな上席の意見に従う時、経験の浅い者の思考は停止している。

「そないしたらエエんちゃう?責任取るん私ちゃうし」と、上席の者に責任を転嫁する者も同様である。

 

思考を停止させ、役職の序列に則って上席の人間に従う者がマジョリティとなった時、同調行為は加速される。

この現象は別に上席の人間が参加していなくても、例えば会議の中で”声の大きい者”に同調する場合も同様である。

先の記事で「伝える技術」を取り上げたが、プレゼンテーションが上手な者は、この同調行為を利用して結果をコントロールする(良いか悪いかは内容による)。恣意的な結果に導こうとする場合は正に ”少数者の過剰な影響” だ。

 

(詳しくはコチラ)

 

集団で意思決定する目的が「合議」であるなら、素早い合意形成を図るのに同調行動や発言者の影響行動が役に立つ。

しかし、目的が「良い企画、勝てる企画を作る」である場合や「みんなが困っている課題を解決する方法」を考える場合に於いては同調行為や少数者の過剰な影響行為は邪魔、というより害になる可能性が高い。時間をかけて漸く意思決定出来たとして、参加者が思考停止して出した結果によって、果たして ”本当の目的” は達成されるだろうか。

 

こういった問題は組織で働く我々にとっては避けて通れない「壁」である。

 

 「壁」を超えるには「工夫」を

 

 こういった問題に対処するには、目的に応じて話し合いの形態を工夫する必要がある。

目的に応じて会議のルール・やり方を決め、これを徹底する事で「壁」を突破できる。

 

例えばアイデアラッシュを目的として会議をする場合等では以下のようにルールを決め、冒頭で必ず全員に伝える。

  • 絶対発言
  • 批判、否定の類はNG
  • 他人の意見に乗っかる

有名なブレーンストーミングだ。ここでは上席であろうが発言力があろうが関係ない。

但し、こういった決め事をしていても上席や経験豊富な先輩は批判や否定発言をしがちだ。

そういった場合、一言でもネガティブが出たらその会議は即座に終了し、ネガを吐いた人を排除して新たに会議をスタートした方が全員の時間が無駄にならずに済む。ブレストはルール遵守より ”終了→バカ排除で再開” を徹底する方が重要だ。

 

他にも企画等「誰かに提案したい内容を複数人で検討」する場合には、会議の前に企画書/提案書面をメンバーに配布しておき、会議当日までに意見を紙に書いて持ってくるよう指示を出しておく。

会議では各々紙に書いた意見を読み上げるのみ。

こうすれば上席や経験豊富な先輩の発言で自分の意見を変えることが無くなり、思考停止による同調を未然に防ぐことが出来る(実際私はこの方法を良く使う)。

また、全員がフラットな意見を発表する事で、何が多数派を占めるのか、少数意見には検討する余地がないのかを後程冷静に検討する事が出来るようにもなる。

 

その他にも有用な会議の方法は世の中に沢山ある。

 

専門的な勉強をせずとも、ネット検索でいくらでも見つかる。たまにはレクリエーションのような”楽しい会議”があってもいいかもしれない。

いつも通りにただ集まって、なんとなく会話して何となく落とし所が決まっていく会議は時間の浪費でしかない。浪費であるなら会議はしない方が全員にとって有難い。

 

会議は参加者のストレス値が上がれば上がる程、思考が順次止まっていく。そうなるともうリカバリーできない。特に長時間に及ぶ会議では顕著にストレス値が上がる。そうして無理に出した結果には何の意味もない事を知っていれば、参加したメンバーは無駄な時間を消費せずに済む。

 

ちょっとした工夫でこういった「無駄の壁」を超えられるのだから、色々試して損はない。