ミドリ草BLOG

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擦り切れそうな人間関係摩擦と経営者のワガママ暴言に辟易としつつ自己嫌悪と闘いながら今日も自立を夢見て

団塊Jr.の役割(1)

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 元々かなりの人見知りであり集団行動が苦手で友人を作る事も出来ず、社内の飲み会等も敬遠しがちな私だが、近年ボランティア活動や社労士会を通じて職場の外で交友関係を築く機会に恵まれている。

 

仕事上での人間関係は必定、金銭や権限、立場などの利害関係がベースにあるような気がして友人として腹を割って話をする事が出来ず、自分の中では交友と呼べない。これが理想的な交友関係の邪魔をしていると感じる。

然しながら、少数ではあるものの現在、幸運な事に今までに持った事のない”人間関係の輪”に所属するに至っている。職場を離れ、共通の目的なり立場なりの下に人間関係が成り立つと、そこには今まで気付かなかった視点や学び、経験が多くある事に驚いている。

 

所で「類は友を呼ぶ」と言うが、私が所属する”輪”には同年代~40代後半の方が多くいらっしゃる。様々な立場でご活躍されているようだが、共通して話題に上るのは「団塊Jr.は疲れている」という事についてだ。

 

本稿では当事者の目線から「団塊ジュニア世代」について少し考えてみたい。

 

団塊ジュニア世代 概観

 団塊ジュニア世代とは現役層で突出した人口ボリュームを持つと共に、就職氷河期世代の先頭を走り、生活者としてバブル経済崩壊による痛手を最もシビアな形で被った世代であり「不遇の世代」等と言われている。

アベノミクス始動後は高成長を知らない世代の中でも特に取り残される傾向にあり、非正規雇用者の減少、活発な転職市場、賃金環境の改善などの就業環境の変化は団塊ジュニア世代よりも下の若年層を中心に恩恵が大きい。

団塊ジュニア世代の”不遇”が日本の経済、社会に及ぼす影響として、

 ・消費の勢いの弱さが経済成長の足かせとなっている

2020年代にかけて団塊ジュニア世代の親の介護の負担が増大する

・未婚で親と同居し、将来「親に支えられる」立場から「親を支える」立場となり、生活が困窮するリスクが高い団塊ジュニア世代は約33万人と試算されている

・2030年代後半以降は団塊ジュニア世代自身が高齢化し貧困に陥るケースが増加する恐れがあり、将来高齢貧困に陥りかねない人は約41万人にのぼると試算される

 等があるが、特に後二者が示す将来像はいずれも後期世代やバブル世代など上の世代と比べて数の上でも格段に深刻といえ、余波として財政面では団塊ジュニア世代の担税力の伸び悩みとともに同世代の貧困増加に対応するための社会保障支出の増大圧力が懸念されている。

 

上記は2019年に発表された日本総研JRIレビュー「団塊ジュニア世代の実情」要約からの抜粋であるが、良い事は何一つ書かれていない。労働者意識の変化に於いても若い世代との「断絶」が見られ、ミクロ視点に立った先般の記事でも述べた通り上下世代間の「狭間」の中で自らの「不遇」を感じながら様々な労働問題や災害を引き起こす要因にもなっている。

現役の中で突出した人工ボリュームがあり、40代半ば~40代後半と働き盛りの中心年代にあたる我々の実情は「大きな社会的リスク」そのものだ。

 

自分目線で見る団塊ジュニア

ひと口に団塊ジュニア世代と言えども皆同様に同じ辛苦がある訳では勿論無い。

同じ世代の中でも突出した成功者はいるし、自身の置かれた状況によって経験してきたことは様々だ。

事実私の職場に於ける団塊ジュニア世代(全員管理職)でも色々な方がいる。転職経験のない者、私のように複数社の転職経験を持つ者、出世頭であったが独立の為に退職した者、両親の介護で休職中の者。

社内を見渡した時、上記のような世代特有の凄惨さ、不遇さは同世代の者達から感じる事は無い。何故ならどの世代の人間にも同じような経験、悩みを持つ者は居るからだ。

ただ、確かにある種の共通する話題はある。例えば「今の若手は恵まれている」と言った類のものだ。

 

「自分たちは会社に入っても研修なんてしてもらわなかった。」

「自分の仕事を終えて帰ろうとすると怒られ、先輩社員の仕事が終わるまで帰してもらえなかった。(夜の12時を"テッペン"と呼んでいたが、原則テッペン前の退社には特別な事情が必要だった。)」

「土日祝日の出勤は当たり前で、自身の記録は110連勤だ。」

「ジョブローテーションから漏れ、同じ職務に20年以上就いたまま管理職になった。他拠点にどんな社員がいるか分からないままだ。」

挙げれば未だ未だ沢山あるが、今の若手は人事制度も労働法規も整備され、自分達が働いてきた環境と比べても随分恵まれているではないか。今の若い連中は付き合いも悪く、仕事が終わればさっさと家に帰ってしまう。仕事が出来なくても指導に当たった先輩社員の責任になる。社員教育に関しても十分に機会を提供されている。これ以上一体何の文句があるんだ?嫌なら会社を辞めれば良いではないか…。

 

この手の話題は、事更飲み会の席等では同世代社員からの同調を得やすい。そして自分の過去や自慢話に繋がっていくという規定路線を辿る。我々が若手の社員だった時代、散々先輩社員や上司から受けてきたこの手のアルハラ兼自慢話に我々自身も辟易とした経験があるのに、だ。

 

いつの時代も「今の若い奴らは…」は定番の酒の肴であるが、とは言え我々世代と新卒入社社員とは明らかに、且つ超え難い距離を感じてしまうのも事実だ。そして原因が時代であり今までの我々の経験から来るものである以上絶対に埋める事は出来ない。

同世代とのコミュニケーションの中で一定数以上の”同調”を得ると、さも自分の意見が正しい事のように思える。確証バイアスも手伝って自分の意見や考え方、キャリアの方向性が正しいものであるような錯覚に陥りやすい。ただ、我々は過去に生きているワケでは無く現代を生きている。本来は時代に適応し、自分自身をチューニングする必要があるが、ここで自分の正当化が進むと主体的に自身を適応させるための調整をすることが難しくなる。我々に最も必要なのは賛同ではなく「調整の為の反省」だ。

法改正や報道を真に受けただけの表面上の行動、言動の変更は反省・調整を伴っておらず、問題の根本解決には結びつかない事はおろか自身の許容を超えるストレスを産み、いずれ大きな労働問題を引き起こしかねない。例示の飲み会での愚痴は其の場凌ぎのコーピングに過ぎない。

 

「調整の為の反省」に欠かせない前提として、私は「自分の役割の設定」があると思う。

 

計画や企画を立てる時は先ず適切な目的を設定する必要があるが、それと同じだ。

 

団塊Jr.の役割(2)に続く

就職氷河期世代の問題(2)

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 ※就職氷河期世代の問題(1)より

negatio.hatenablog.com

 

 先日とある研修会にて、偶々同世代の男女数名で帰路につく事となり、道中、「我々は不遇だ」という会話になった。

 

帰路を共にした男女は全員中間管理職として一般企業に勤めており、自分より歳の若い部下を複数名抱えている。互いに似た就業環境である我々共通の悩みは「若い社員への対応」だった。昨今何かと巷を賑わす各種ハラスメント問題を常に気にかけて部下とコミュニケーションを取っている。

 

話題となった”部下との接し方”の一例として、仕事を部下にお願いする(命令する)際はその業務の目的と手順・方法の詳細を分かりやすく、時には資料を準備し、説明の最後には理解度を確認する。更に進捗報告のタイミングを設定し、適宜報告をお願いする。

不適正な形でアウトプットを示された場合は具体的に不適正である箇所を示し、修正する方向性や方法、納期を説明し納得を得るようにする。人格否定や叱責など以ての外、説明や指導には相手が納得するまで十分に時間と労をかける。

飲み会の席ではお酌を強要してはならない。誰にも気を遣わない手酌が一番であると自ら酒瓶を握る。プライベートについては極力質問せず、所謂下ネタは絶対に使わない。これは男性同士の食事会でも同様である。

武勇伝は感情・心情を入れず事実を語る。決して過去の経験を基にマウントを取ってはならない。辛い時期を乗り越えたからこそ今の自分がある、だから苦労は買ってでもしろ、等のアドバイスは最早禁句である。

この手の話は我々世代の酒の肴として頻繁に取り上げられ、「最近の若いヤツは…」との結びに繋がるのが既定路線だが、最近少し変わってきたと感じている。

そう、氷河期世代の我々ミドル層の間では冒頭の「不遇だ」という結びに変わりつつあるのだ。

 

今を生きる我々氷河期世代管理職の悩み

 2012年よりアベノミクスによる金融緩和政策が始まり、2013年に東京オリンピック開催が決定し、全体有効求人倍率(パート・アルバイト含む)が1倍を超えた。程なくして2017年、正社員に於ける有効求人倍率が終に1倍を超え、働く意思のある人なら誰でも働ける「完全雇用」の状態を迎えた。労働市場は非常にタイトになり、現在多くの中小企業が深刻な労働力不足を感じ始めている。 現在就職市場は中小企業を相手に空前の売り手市場となった。

少子化による労働人口減少問題も後押しする形で、非正規労働者などを低賃金で使い捨てにするような経営では人口不足の日本で持続性のあるビジネスを展開することは出来ないと気付いた中小企業を中心に優秀な人材の争奪戦が始まった。

より良い労働条件を。

より良い雇用環境を。

より良い人間関係を。

先進的なオフィスや機材、アイデアや経営理念整など自社の雇用市場へのPR合戦は熱を帯びている。

新卒入社社員は内定時から辞退防止策として研修や社員との懇親会をセッティングされ、就職後も手厚い研修とOJTが実施され,会社によってはメンターまで配置される。

これらの処遇は我々が経験してきたソレとは真逆であり、彼らの前では最早我々の常識とスキルは通用しない。就職や仕事に対する姿勢、考え方、受けてきた教育、これからのキャリアプラン、どれをとっても我々世代と一線を画す。

ミドル層管理職に於いては、これも時代の変化と割り切って自身の意識と行動を無理にでも変えていかなければ組織運営はままならないだろう。 変わらなければ今の労働者人権意識の高揚に押し出される形で職場からつまみ出されかねない。

 

上記のように、今の社会情勢や雇用市場の変化、人権意識の高揚から、例えばハラスメント等が社会的に認知され、我々が”当たり前”だと思っていた事が実は”悪い事”となり、様々な労働問題に発展いしていくという雇用管理上のリスクの増大は、我々ミドル層管理職が持つ問題の一つの側面である。

然しながら、我々が持つ問題のもう一つの大きな側面は我々の「上司」にある。

 

中間管理職である以上、我々にも上司はいる。

ピラミッド型組織形態をとる企業が多い我が国では上意下達方式で様々な形の指揮命令が為されるのが一般的であるが、この際我々が直接指揮命令を受けるのは上司からである。(総論的だが)この「上司」は我々より年上である事が大半であろう。つまり今では非常識と言われる様々な教育、経験を積みそれらを体得し、或いは耐え抜いてきた猛者達である。彼らの”常識”はいわば我々と共通する常識であり、彼らの対話の相手は我々ミドル層管理職である。

我々の「上司」は各種ハラスメントを厭わない。”悪しき”行為であるという情報は持っているが、実感はしていない。そこに悪意はなく、ただ昔からの慣習と為された教育の賜物を以て指導・教育を部下に施し、指示・命令しているに過ぎない。

 

このように、凄惨な雇用市場の中で年功序列と就寝雇用を信じて現在まで生きてきた我々中間管理職の面々は、「上司」とは”旧来の常識”に則った形でコミュニケーションを取り、若手社員とは”新しい常識”の上でコミュニケーションを取らねばならない”狭間”に立っている。この狭間の中で上手に立ち回らなければ業績不振やチーム崩壊、労働災害など様々な労働問題の引き金を引いた責任を問われかねない。そして、「上司」と「若手」という上下どちらかの属性に肩入れをする事は立場上許されない。

今を生きる我々は「上司」が退場するまでこの”狭間”で生きていく。2つの”常識”を共に理解し、上下の関係を融合・接着させて組織のスムーズな意思疎通を可能とする潤滑材としての役割を負わねばならない。

そのような器用な人間が果たして何人居るだろうか。

自分たちが受けてきた教育や価値観を、従来通りの方法で次の世代に伝える事がそんなに悪いことなのだろうか。

我々は何故、このような複雑な立場に立たされなければならないのだろうか。

 

我々氷河期世代管理職のコレカラ

働き方改革が叫ばれる昨今、各種ニュースではハラスメントを筆頭に数多くの労働問題が取り上げられているが、こういった事件の中で40~50代の方が引き起こす問題の多くはこの”狭間”の中で生きる葛藤の中から生じたものであると私は考えている。

20年余の歳月をかけて蓄積した経験とそれに伴う教訓やスキル、価値観は一朝一夕には変える事が出来ない。”新しい常識”についての様々な情報は、見聞きする事は出来ても実感する事は出来ない。

AIやSDGs等新たな価値の出現に伴い激化する中小企業間の生き残り競争の中、責任と共に新たな、しかも未知のストレッサーを抱えた我々氷河期管理職達は対処や解決方法も分からず、時に失敗し、時に心身を病みながら手探りで現状を前に進めるしかない。

 

我々が会社員としてこれからを生きていくためには、狭間の世代に生まれた事を悲観するだけではなく、辛い思いをして得た経験と培った能力を武器に、我々自身が”柔軟に変化”できる方法を探さなければならない。

これは挑戦である。

難易度が高く、成功を示唆する兆候すらも見えないが、然しこれは我々にしか為し得ることが出来ない壮大な挑戦である。

 

 

 

就職氷河期世代の問題(1)

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 私はとある中小企業でスタッフ部門の管理職として勤務している40代半ば、俗に言う就職氷河期世代だ。ロストジェネレーション世代ともいわれ、バブル崩壊後の失われた20年のうち特に雇用状況のひどい約10年間に就職活動をした世代だと言われている。

平成30年度の有効求人倍率は1.61倍(前年より3.1ポイント上昇)だが、氷河期真只中の1999年度有効求人倍率は0.48倍と、当時の就職難は如何ほどであったかは想像に難くないだろう。

私自身も多分に漏れず就職先を探すのに随分難儀をした。社会人一年生を華々しく飾った職場は某新聞の拡張員だった。

(後に知る事となるが、雇用形態は業務委託であり社会保険は勿論なく、法律上労働者ですら無かった)

今でこそ暖かい社内でデスクワークに勤しみ、管理職として部下を預かる身にもなれたが、ここに至る迄に数社渡り歩き、その都度凄惨且つ圧迫的な面接と今で言う所のパワハラを経験している。

 

昨今、我々就職氷河期世代にスポットが当たりつつある。話題の発端は「中高年齢層のひきこもり増加」と「80-50問題」だ。

 

氷河期世代は雇用環境が厳しい1993年(平成5年)頃から2005年(平成17年)頃に就職活動を行った結果、希望する就職ができず、現在も不本意ながら不安定な仕事に就いている、若しくは無業の状態にある等様々な課題に直面している者が多いとされる、現在30 代後半から 40 代の者の事だ。

政府は支援策として不安定な仕事、つまり非正規雇用の者と無就労者に対して重点的に雇用促進を図るプログラムの展開を予定している。具体的にはハローワークでの専門相談窓口の開設やリカレント教育の拡充を図る為の職業訓練受講給付金の給付対象拡大等だ。また、この施策は「8050」問題及び「ひきこもり層」への具体的な支援も兼ねる為、従来申告方式(ハローワーク窓口にて休職の申込)という積極的行動が必要だった代わりに【アウトリーチ:公共福祉に携わる人自身が、サポートを必要とする人の元に出向く】方式を取る事も特徴の一つだ。

(因みに氷河期世代への就労支援施策としては「わかものハローワーク」が10年程前から展開されているが、最も若い氷河期世代も30半ばを超える事から「わかもの」と呼びづらくなり、東京のハローワークでは「ミドル世代チャレンジコーナー」として新たに窓口を設置した模様)

 

同世代の者として、今になって何故氷河期世代がフィーチャーされるのかと違和感を覚える。

 

就職氷河期世代が抱える問題

政府によると、我々世代の抱える問題は「希望する就職ができず、現在も不本意ながら不安定な仕事に就いている、無業の状態にあるなど、様々な課題に直面している者がいる」事にあるらしい。

確かに、求人の絶対数が少ない中で自分の希望する職業に就くには熾烈な競争に勝たなくてはならなかったし、かと言って職に就かない訳にも行かない。雇ってくれる会社が有れば儲け物とばかりに其々就職先を選んで行った。中には"不本意ながら"有期雇用という選択をした者もいるし、圧倒的不利な状況下で就職戦線から離脱し、自信を喪失して無業を強いられた者もいる。しかし、それは現代に於いても大なり小なり発生する問題だ。

氷河期の問題の本質はその人数にある。

氷河期世代の一部は団塊ジュニア世代とも言われ、これは団塊世代の第二次ベビーブームから発した人口増加世代にあたる。つまり、単純に多世代より非正規雇用又は無業者の人数が多い。

現在我が国は急速な人口減少に伴う労働者人口の減少に歯止めが効かない危機的状況であるから、先ずは非正規/無就労人口の多い年代層の就業促進を図り、就労人口増加を図るのが政府施策の本懐と解するのが正当だろう。統計によると、不本意ながら非正規雇用で働いている人が少なくとも50万人、「長期無業者」が40万人程度いるとみられ、支援が必要な人は100万人程度と見込まれている。政府はこの約100万人を対象に支援を行い、正規雇用で働く人を3年間で30万人増やす方針を示している。

 

私の違和感の正体はここにある。

 

確かに日本全体を考えた時、労働者は国を支える重要な経済資源だ。多いに越した事は無い。バブル崩壊後、何ら具体的な就労支援を受けられなかった我々にとっては支援がある事自体有難い。然しながら、支援の手は現在非正規/無就労の者が対象であって正規雇用による就業者は対象ではない。

先程氷河期は数の問題と述べたが、不本意な就職を選択し現在もその職業についている正規雇用者の数もまた他の世代より多いのだ。

我々氷河期を潜り抜けた多くの者は、取り敢えず正社員で雇ってくれる会社なら喜んで就職を決めた。両親からも正社員雇用で働く事こそが大人になる事のように、社会人の証明であるように言われた。どれだけ過酷な労働環境であろうと、どれだけ不条理なハラスメントが横行していようと、掴んだ職業を簡単に離すわけにはいかなかった。転職の難易度は高く、それ故にどんな命令にも服従し、歯を食いしばって会社に滅私奉公する事が美徳とされた。

 

景気が後退する中、経済界では成果主義が叫ばれ、個人の短期的営業成績に依る評価制度が導入された。競争社会は熾烈を極めたが、心身を病み退場していく者たちに救いの手を差し伸べる余裕は我々には無かった。自分が生き残る事を優先しなければ、あっという間に社会からドロップしてしまうという恐怖感が常にあった。

高度成長期からバブル経済を経験している上司や経営層達の夢の余韻(自慢)やハラスメントの応酬に辟易しつつ、首を垂れて唯只管に所属する会社に利益もたらす為だけに時間と能力を費やした。

20年余りが過ぎた今、好き放題従業員を使い倒し、裕福な職業人生を歩んだ所謂”逃げ切り世代”である会社役員やトップマネージャー達は我々が立つ現場から姿を消した。当時しこたま貯め込んだ貯蓄と高額な年金をもらいつつ、華々しいバブル時代の思い出と共に今も定年後の生活を謳歌している。

 

氷河期特有の価値観とスキル

 では、残された我々はどうか。

以下は私個人の意見であり全く違う意見を持つ諸兄も多いと思うが、特に超氷河期と呼ばれた1990年代後半~2000年頃に就職活動を行った世代の総論として述べたい。

 

 先ず、我々に「ハラスメント」といった概念は無い。

ハラスメントとは簡単に「相手の意に反する行為によって不快な感情を抱かせること」と定義されるが、こんなものは日常数えきれないくらい現場で起こっていた。

人格を散々否定されても、飲み会や接待の席でヘンテコリンな女装を強要され皆の笑いの種にされても、多数の従業員の前で大声で叱責を受けても、ミスの際にあからさまな暴行を受けても、これらは言わば職場での”当たり前”であって、自分が悪いという思いはあっても相手が悪い事をしているという感覚を持っていなかった。今の職場に居残り続けるにはバカな上司に”耐える”のも大事な仕事の内だからだ。

我々にとって上司とは絶対で高圧的且つ理不尽なものであり、マネジメントとは「言う事を聞かせる」こと、つまり命令を発する事だと認識していた。指示、命令を理解できないのは受け手である我々労働者側の情報補完能力や想像力の欠如のせいだと指導を受けた。

私が印象に残っている当時の社長とのやり取りは、「花や川、山の名前を瞬時に50個以上言えないのは学習が足りていないクズだ。クズに給料は払わない」だ。

真に受けて流石に花や山の名前を50個覚えはしなかったが、その社長が在席している間、私はずっと「人間のクズ」扱いだった。勿論、呼ばれる際も「おい、そこのクズ」だ。

上席の人間には服従する。これが我々ミドル層の「常識」だ。

 

次に、我々は自分さえ良ければ良いという利己的な仕事の仕方をする。

仕事の成果は自分1人で上げたものである方が都合が良い。上席に、延いては会社に効果的に自分の優秀さをアピール出来る。評価は賃金となって返ってくる。

また、大多数の会社はピラミッド型組織形態を取るが、皆が皆高額なポストには就けない。所謂ポスト争いだ。これは単純な生存競争であり、より高次なポストを手に入れる事で会社に残る可能性は増し、賃金も上がる。

ポスト数に限りがあるなら他者を蹴落とさなければ有用なポストを手に入れる事は出来ない。単純に競争相手は少なければ少ない方が勝率が上がる。

他人が挙げた成果は難癖を付けて評価を下げ、自分が挙げた成果はそれ以上の評価を求める。このために処世術(その殆どは忍耐)を磨き上席に取り入ろうとする。

問題は会社という狭い範囲での無意味な生存競争が熾烈を極め、優秀な人材が流出するという事実だが、そんな事に気づくほどの心の余裕は無い。

我々は今の会社にしがみ付いて自分自身を、そして我々の家族を守り養い続けなければならない。

 成果主義の中、忍耐強くズル賢い者だけが勝利するという現実の中で我々はその特異なスキルを磨き続けた。某社栄養剤のCM「24時間戦えますか?」が何の違和感もなくお茶の間に受け入れられていた、そんな時代だ。

 

20余年という月日をかけて我々世代はかような教育・指導を受けて育てられてきた訳だが、然し今、労働環境は昔の影形を残す事無く変わってしまった。

 

(2)に続く

 

量×質=成果

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 2020年4月より、中小企業でも時間外労働の上限規制が適用される。

原則として使用者は雇用する労働者に対し、月45時間、年間360時間を超えて時間外労働をさせてはならないという義務を負う。

36協定上の特別条項を適用しても月100時間までとなる。その他複数月平均80時間、45時間を超える月数6以下といった条件が課され、違反の場合罰則が科される。

先んじて2019年4月より大企業にて適用されたが、その前年2018年度から2019年度の社会保険労務士業界トレンドは上限規制一色だった。

(因みに現在の社労士トレンドワードは同一労働同一賃金並びに電子申請対応。)

 

無駄な残業を減らして時間単位の生産性を上げ、所定或いは法定の労働時間内で作業を終了し、残った時間は自分や家族の時間として過ごす。働き方改革の中で叫ばれたWLBの実現の一端を担う施策である。

当社は労基法の基準上大企業扱いであった為、2019年4月より規制の適用を受ける事となり、同年より残業規制の為の施策を強固に推進した。現場からは多大に不満の声が上がったが、そこは「法律上」の規制である事を根気強く説明し、無理にでも納得してもらった。結果月45時間を超える時間外労働を行う者は記録上殆ど無くなり、年6回を超える者も現時点で居ない。

同様に対応に苦慮されている会社も多い事と思う。残業が多い事を嘆いていた従業員は、残業を禁止した途端給料が減るから困ると言い出す。作業を途中で投げ出して帰宅する者は流石に出なかったが、しかし現場のアウトプットはミスや杜撰さが目立つようにはなった。

 

時間外労働の上限規制は、確かにWBLに一役買う事は理解出来る。しかし「労働時間の上限が一律に規制される」という意味をもう少し考えてみる必要がある。

本稿では時間外労働の上限規制がもたらす別の側面を考えてみたい。

 

労働時間=量

 成果は量×質の掛け算で決まる。

昔から学校や学習塾などで言われており、特に受験勉強シーズンにはこれを言われながら勉強に励んだ諸兄も多いと思われるが、これは仕事をする上での本質を突いた言葉でもあり、この場合「質」とは能力と解する事が出来る。

複数の者が同質のアウトプットを生み出す際、能力つまり「質」の差によって量は異なる。つまり労働時間に差が生じる。この量を一律に定めた場合、質が変わらなければ成果物に差が生じる事になる。

これは能力の差を労働時間でカバー出来なくなる事を指し、成果の差は結果として人事考課なりの評価に繋がる。

勿論仕事の全てに於いてこの理屈は合致しないだろう。質や量で測る事が出来ない種類の仕事も多数存在する。然しながら全く的外れというワケでもない。

定量で、且つ平均的な身体能力や思考能力を要する仕事も職場には多い。であるならこの手の仕事に於いて、上記の公式による成果の差が生じる。

繰り返しになるが、成果の差を埋める為に労働時間を増やすという方法は使えない。同様の成果を生むためには「質」つまり固有の能力を何とかして向上させる以外方法が無くなる。

「量」が一定である条件の下一定の成果を生むことが出来る人は評価されるが、カバー出来ない人は何時まで経っても評価される事は無く、社内格差が狭まる事は無くなってしまう。

 

また、個人の能力の発揮度合いは与えられた職務内容に対する適正や得手不得手、置かれた労働環境や体調等様々な要因によって左右される。よって、限られた時間内で可能な限り生産性を高め、同質の成果を生み続けてもらう為には、使用者は最適解である人員配置と人事制度(ソフト面)や施設・設備(ハード面)両面での労働環境の整備が急務となり、労働者側も仕事をする上で最高のコンディションを保つために日々の生活環境を見直し、規則正しく私生活を送る努力をしなければならない。

油断による私傷病や、増して飲みすぎによる2日良いなど以ての外であろう。

必定、制限を設けると何処かに必ず影響が出る。果たしてこの影響は我々が甘受できるものだろうか。

 

量=勤務経験

 仕事を処理する能力は職務経験量によって向上する。アマチュアと熟練の差、である。

私はこれまでに数社の会社を渡り歩いたクチだが、どの会社でも入りたての時は先輩社員のように仕事を処理できず、細かな事務作業に於いても散々無駄に時間を使った。しかし数か月も経てばその会社独自の事務手続きや風習にも慣れ、既存社員と変わらないスピードで物事を処理出来るようになる。職務の範囲が広がり新たな仕事を任された際も最初から先任者のようなスピードで処理できるワケではない。最初は時間を要するが、その内に仕事の処理に必要な能力を獲得し、慣れも手伝って先任者同様の時間で成果を出すことが出来るようになる。かようにして会社の中で仕事上の能力を向上させて行くのが一般的であるが、新卒入社や第二新卒入社の者はどうだろうか。

途中入社のように業務と能力をマッチングして採用する場合はいざ知らず、社会人1年生である彼らは仕事を処理する能力をそもそも備えていない。

勿論、会社も採用当初から新卒入社社員に対し現役社員張りの成果を求めたりはしない。数年という時間を掛けて教育・指導し、現役社員同様の成果を生み出せるまで育成した上で現場に本格投入する。

然しながら投入されたての社員と最前線で働く30台社員との能力差は歴然であり、同様の成果を求められても難しい。投入当初はありったけの「量」を使い「質」をカバーしながら成果を出す。そして経験を積み能力を獲得する事で「質」が上がり、一定の成果を生み出すための労働時間は減少する。これは言わば企業で働いている誰もが通る通過儀礼のようなものである。

 仕事である以上我々はどんな立場であれ成果を疎かにする事は許されない。

然るに我々は任された仕事に於ける自分の能力の段階に応じて「量」と「質」をバランスよく使い成果を一定に保つ必要がある。こと、勤務経験が浅い間は顕著に「量」「質」にバランスの差が出てしまう。つまり時間外労働が慢性的に増える。

(新人を放置して労働災害を引き起こす事が無いよう、能力獲得に向け正しく導く管理体制と指導方法が存在する事が前提であるが)


労働時間の上限が制限されると、経験時間当たりでより高く能力を成長させる事が出来る人間が優秀と言う事になる。要領良く仕事を運ぶ人は評価されやすいが、逆に時間を掛けて能力を獲得するタイプの人間は評価されにくくなる。

人間の能力は経験時間と正比例して右肩上がりに直線的に伸びていくものでは決してない。人によって様々なS時曲線(ロジスティック曲線)を描く。最初は周囲の人間より時間が掛かっても、ある時点から急激な成長を見せる者も沢山いる。

「量」が規制された今、彼らはどのような評価を受けるのだろうか。

 

「働きやすい」とは

  働きやすい職場の条件の一つとして「物理的な拘束時間の長さ」というものがある。

 確かに約束された拘束時間が短ければ、仕事の後の自由時間も確保しやすく、日常生活上予定も立てやすい。だが、時間を短く設定且つ成果も求めない会社は存在しない。仮に成果のレベルが低く設定されているのであれば、賃金もそれなりという事になる。

要は、就労時間の上限を設定しているという事は成果を生む為の自己裁量的条件を制限し、限られた条件下で一定の成果を求めるという事だ。これは「働きやすい」と言えるだろうか。

 

思うに、働きやすさとは「裁量」の範囲の広さにあると思われる。

ある仕事を与えられた際、結果(成果)に至る過程を自身の持つ能力や時間、場所等のリソースを自分の判断で適正に配分し、仕事を進める裁量。

単位時間当たり生産性の向上には、今以上に自由な、そしてドラスティックな発想が必要になるが、こうした裁量の広さこそ自由な発想を生み、別の角度、視点からのアプローチを検証することに繋がる。多種のリソースを自由に使って自分なりの成果の出し方を研究する事も可能になる。

 

労働時間の上限を法律で縛るのは、ブラック企業と呼ばれる凄惨な労働環境で労働者を酷使する一部の者達を規制する為には有効であるが、別の側面として自身の持つリソースを制限され、生産性を下げる要因になり得ないだろうか。

我々労働者は「量」を自由に使えなくなった。

ならば「質」を上げる為に自己努力し、これに「自分の時間」を費やさなければならない。

 

仕事を辞めてしまう前に考えるべき事

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 当社でも周囲の会社同様、若手から順に退職していく。

人材市場に於いて年齢は大きな武器となるので、自分のキャリアチェンジを考えて行動するなら絶対に早いほうが良い。30半ばを超えだすと、自分の理想ばかり追求して転職先を探す事は難しくなる。

40歳を超えると、転職後に期待を持てなくなる事も多い。余程のスキルや経験が無い限り、年収を下げる、あるいは不本意な職務を受け入れる等々、転職の際には辛い選択と妥協を求められる。

事実、当社をそれなりの年齢で退職していった従業員やマネージャー達の後日談を聞く限り、中々に冴えない職業生活を送っているようだ。

 

退職の理由は人それぞれ

  一般的に企業で行う仕事とは、就業規則や業務命令等様々な労働上の制約の下、限られた自分の時間を消費して行う生産活動を指す。

 

こと業務命令には果たして世のため人のため、或いは自分のために有益であるかどうか疑わしいものが沢山ある。然しながら通常(大企業のトップマネジメントはいざ知らず)我々のような中小企業の従業員には命令やトップの指示に対し有益性や有効性を自ら判断し、実行する/しないの決定を下す権限は無い。社歴を積み職制が上がろうとも、指示や命令の抽象度が上がるだけで自身の持つ権限の範囲にさほど変わりは無い。

与えられた立場や命令に対して不満を抱き、退職を考える方も多いだろう。

 

他にも「人間関係」に起因して退職を考える場合がある。

企業という人間集団の中で活動する以上、自分一人で全ての仕事を全うする事は不可能だ。通常は他者からの意見や評価の影響を受けながら仕事を進める事になる。仕事が出来る人も出来ない人も皆同じで、ここに一切悩みを抱かない人間は居ない。

目に見えず、コントロールも出来ない他人の本音や感情に右往左往しながら、時には積極的に周囲に働きかけて調整し、時には嵐が過ぎ去るのをじっとして待つ等場面や人、状況に応じて適切な対処を求められるが、必ずしも快方に向かうワケではなく、ともすれば想像を超えたトラブルに発展したりする。

ここに悩みやストレスを抱き、退職を考える。

 

他にも企業側からの圧力や勧奨、又は家庭や生活環境の変化による「外圧」をキッカケとして退職を考える場合もある。

退職を考える時期や基準、理由は正に「人それぞれ」であるが、本稿では「自らが主体的に退職を選択する」という行為について考えてみたい。

 

理由や立場は違えども過程は同じ

 一例として、企業での職業人生をある点から右側に伸びていく時間軸線に置き換えた場合、就職した時点からキャリアがスタートする(A点)。時間軸が伸びていく過程で様々な職務経験を積み、知見を拡大して、所属する企業内で職業人として成長していく。そしてある日、退職を考えるようになる(B点)。色々検討した結果、退職した時点でその企業における職業人としての経験は終わる(C点)。

通常この後転職活動を経て再就職という流れになるが、転職活動を成功させるには前職で培った知識や経験を有効に活用できる転職先を探すというのが一般的である。

中には前職と全く違う職務経験を求めて転職活動を行う人もいるが、それにしても組織人として学んだビジネスマナーやコミュニケーションスキル、機械操作スキル等の仕事に於ける基礎的な力を有効活用するハズだ。一念発起して起業し、独立開業する場合も同じ事が言える。

当然の事だが、勤め先が変わろうとも職業人生のスタートは上述のA点である。

 

B点では、大体の人が何某かのキッカケで現在いる職場とは別の職業人生を未来視点で考え始める。様々な情報を収集.分析し、キャリアチェンジに対するリスクを見積もった上で最終的な判断を下す。結果として退職を選択し、C点に至る訳だが、ここで1つ注意しなければならない事がある。

それは「社内評価は社外では通用しない」という事だ。

 

キャリアチェンジの失敗は得てして自己評価と転職先の評価の乖離、並びに情報収集不足にある。つまりB点ーC点間に問題がある。

転職を考える場合、先ずは自分の能力や経験を一般市場価値に置き換えて考える必要があるが、そもそもこれが難しい。明確な資格取得実績と、これに伴う実務経験が有れば評価もされやすいが、明確な基準がない自己の能力や経験を客観的に評価、判定出来る人間は自分も含めて存在しない。例えば面接官等は経験則を以て主観的に合否を判定しているに過ぎない。

自分の市場価値が主観的な評価によってのみ判断されるとなると、そこに明確な正解はあり得ない。そうするとキャリアチェンジが成功するか否かは正に運を天に任せると同義という事になる。そう未来の事は誰にも分からない。

本質としてはそうなのだが、人生の中で重大なウェイトを占める職業を運頼みだけで決めて決まって良いだろうか。

 

何か新しい事を始めようとする際は成功者の事例を参考にするだけでなく、失敗した事例を多く集め、客観的な視点で分析する。こちらの方がより重要な発見に繋がるからだ。キャリアチェンジに係る情報収集に関しても同様の事が言えるが、しかしながら退職の意思に比例して確証バイアスが強くかかる。

(※確証バイアスに関してはねこひげ先生様「ココロクエスト」記事を参照)

www.cocoro-quest.netこのような状態に至ると収集した情報が正しくても正しい判断が出来ない。いくら大量に情報を集めても、どれだけ時間をかけて分析したとしても、ともすれば自身にとって間違った分析や評価をしてしまう。

 

考える事の重要性

コントロールできない自分の未来や周囲や市場からの評価に対して我々は実に無力だ。謙虚な姿勢で丁寧に周囲からの意見を広い、時間をかけて様々な可能性を比較検討しようとも、想像した未来とはかけ離れた現実が待っている事もある。

だからといって諦めて何もせず、流れに身を任せてしまうというという選択をしてしまう訳にもいかない。年を経る毎現実は厳しくなっていく一方、責任も重く圧し掛かるようになるからだ。

私たちに出来る唯一の事は「今を考える」という事しかない。

有りもしない未来を想像するよりも、現在の視点に立って他に何か出来る事は無いか。有事の際に役に立つ能力を一つでも身に付けて置く方法は無いか。

視点は「今」が重要だ。

 会社は永遠には存続しない。今いる組織も数年後には無くなるか、若しくは形が全て変わっているかも知れない。

勿論退職や転職を検討しなければならない時が来るかもしれない。

 

そうなってしまった時、より有利な影響を与えてくれる能力や経験は、今の環境下には全く無いだろうか。

キャリアチェンジの可能性を広げる為にも、理想の未来に近づくためにも、今自分が経験しておくべき、もしくは経験したい仕事は今の環境下にないだろうか。

 

会社組織は狭いようで広い。

専門性が高く且つ汎用性のある仕事をしている人達が、どんな会社にも一定数存在する。どうせなら全てを経験し、自分の能力として蓄積する方がコストパフォーマンスは良いのではないだろうか。

仕事を辞めようと思ったら、先ずは身の回りを「今」という視点で見渡してほしい。

きっと新しい可能性が見つかるはずだ。

 

今現在の職場環境に問題があり、それでもただ一人で耐えなければならない人もいるだろう。苦境に立たされ孤独を感じた時、我々の視野はどんどん狭くなる。

そんな時は同僚や家族に慰安の状況を素直に話すのが一番良い方法だ。アウトプットする事で不思議と問題が整理され、狭まった視点は自ずと広がってくる。

それでも悩みが解決しないときは是非、我々のボランティア団体を頼ってほしい。

www.sien-ikkyuu.com

 

 

 

 

マウンティングについて

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 最近よく「マウンティング」と言う言葉を頻繁に耳にする。

 

マウンティングとは本来動物が自分の優位性を表すために相手に対して馬乗りになる様子を言うが、昨今ハラスメント関連で良く耳にするソレは「言葉や行動により、相手より優位に立ち、支配しようとすること」であり、自己の優位性を確立する為に立場や知識を元に意見を主張し、更に優秀アピールをする行為らしい。

会社では態々ネーミングしなくても日常茶飯事過ぎてこれが問題行為であるかを考えた事も無かったのだが…。

 

今回はこの難解な「マウンティング」について考えてみたい。

 

どこからがマウンティング?

 

組織体の中で仕事をする上で欠かせないのが関係者とのコミュニケーションだ。

どんな職業であっても打合せや会議、報告連絡相談、軽いミーティングなど、頻度のさはあれど様々なシーンで関係各位と会話する事で意思決定や調整を行い仕事は進んで行く。

そういった仕事上のコミュニケーションでは自分の意見を率直に述べ、時には戦う事もある。

例えば、あるプロジェクトの会議でどうしても引けない要望がある場合、自身の置かれた立場や経験則、又は実績や能力に基づいて、つまり根拠を示して意見を出すだろう。

 

当然これはマウンティングには当たらない。

 

会社にとって重要なプロジェクトを扱う会議は通常複数人が参加するが、そんな中で何の根拠もない思いつきだけの意見で皆の時間を無駄に費やす訳にはいかない。意思決定には参加メンバー全員の責任も伴う。意見を述べるのなら最低限論拠は示すべきだ。

 

考えるに、この先からマウンティングになるかならないかの線引きがある。

 

キーワードは【支配】と【場面】

 マウントを取りに来る人の特徴の一つとして、「排他的」であると言う事が挙げられる。自分の意見以外は認めない。自分の意思のみで物事を進めたい。だから他者の要望や意見より先ず自分を優先して扱って欲しい。

故に自分の発言、意見を持って関係者や集合体を支配しようとする。

反対意見には謝辞や検討ではなく論破で応戦する。若しくは反対意見を出した者に対し自分を論破する事を求める。

いよいよ応戦に苦慮すると、根拠の無い感覚だけの意見及び立場(職制や社歴、経験年数や収入金額など)を持ち出し、相手の論破攻撃を防ごうとする。

「俺を誰だと思ってるんだ!」「誰が言ってると思ってるんだ!」等はマウントを取る際の代表的な言動だろう。  

こうなるとマトモな議論は出来ない。

集合知を産み出す道は永遠に閉ざされ、独りよがりの思考に基づいた凡庸なアウトプットしか生み出せない人々の集合体になり果てる。

このような事例は【積極支配型】と呼べるであろう。

 

また逆に、どんな意見に対しても「否定」を投げつける事で優位性を担保しようとする場合もある。

私のNOを論破できるのならやってみろとばかりに、全ての意見や行動にNOを表示する事によって自身の安全な立場を確保しようとする。

こと仕事に於いては経験のない案件や企画立案を遂行する事は多い。未知のリスクが大量に潜んでいる。だからといって遂行しないわけにはいかない。

この場合、勿論リスクを想定することは非常に大事な作業だが、すべてのリスクを想定することは出来ない。パーフェクトに一つの不具合もなく物事を遂行することは誰にも出来ない。

しかし、「否定」派はこれにもNOを突き付ける。自身の立場や経験を盾にリスクは全て洗い出し、対応策を練った上で遂行すべきだと主張する。安全安心の代表として玉虫色の答えしか受け付けないのだ。

そして何か不具合が発生した際に、彼らは決まってこう言う。

「だから言ったじゃないか。私の言う事を聞いていればこんな事にはならなかったのに。」

こうなると建設的な話し合いは出来ない。一人の容赦ないNOのお陰で意見を出す者は居なくなり、結果として凡庸なアウトプットしか生み出せない人々の集合体になり果てる。上司がこのタイプだと、部下は相当苦労するだろう。

このような事例は【消極否定型】と呼べる。

 

挙げれば切りがないが、凡そ上記のようにマウンティングは立場の上下関係が存在する場合においてネガティブな思考の下、発生する事が多いと思われる。つまり、

 

  ① 不適切な場面で

  ② 関係者(の何か)を支配するために

  ③ 立場や経験を用いて

  ④ 優位性を確保する

 

という要件が揃った所で「マウンテイング」であると評価できるだろう。

 

令和元年6月にパワーハラスメント対策が法制化された。これに伴い厚労省パワハラに基づく労災認定のあり方の検討を始め、現在労災認定に用いている「業務による心理的負荷評価表」に、新たにパワハラを追加して令和3年度以降の認定基準改定を計画している。

 

ともすればマウンティングはパワハラとして評価され、労働災害として認定される日が来るかもしれない。

 

マウンティングへの対策

事実を事実として延べ、意見の優位性を示す事は仕事上でも必要な行為であるし、トップダウンの業務命令などは雇用といった支配従属関係があって初めて機能する。

然しながら、そういった必要がない場面での支配・従属関係の強要や示唆は邪魔なだけでなく成果にも多大な悪影響を及ぼす。

あからさまなマウンティングに対しては「無視」「適当に流す」等の対処法が他のサイトにて紹介されているが…果たしてこれが良い結果を生むだろうか。

会社で上司の言う事を「無視」したり「適当に流す」事が出来るのであれば、様々な労働問題は一挙に解決できる。しかし大部分に於いてこのような対処法は取れないのではないだろうか。

マウントを取ろうとする人間の立場が自分より上だった場合、最早対処は不可能である。

 

そうであるならば、仕事におけるマウンティング対応策有はただ一つ。

 

上の立場の者がマウンティングをしない事だ。

 

社会に入り年数と共に知見を蓄え、或いはマネージャーとしての実力を認められた者達は須く自身の言動に注意を払うべきだ。命令と指導や検討を同じテーブルで考えてはならない。

 

チームを率いる立場の者には、先ず目的を設定しメンバーに説明、説得する義務がある。

設定した目標をチームで達成する為に議論し、調整し、全体をまとめていかなければならない。これに必要なものは支配ではなく協力だ。

単純な事だが、ここを間違えなければマウンティングといった滑稽な言動は起こらない。

 

目的達成の為には何が必要なのか。

 

重大なリスクを孕むマウント行為。

上席である諸兄は今一度基本に立ち返り、自身の言動を見直してみてはいかがだろうか。

 

 

自信を無くした自分と折り合いをつける方法

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近年は自分より若い方々と仕事で話をする機会が増えた。

 

◆熱中時代

 昔は会社の先輩や取引先の担当者等、関わる人のほとんどが年長者であり、自分は教わる立場である事が殆どだった。

それこそ一言一句聞き漏らすまいとメモを片手に全集中で打合せに臨んだものである。

思考を鋭敏にし、話の帰着点を前回りで想定し、不明点は残さないよう、しかし質問攻めにならないよう自分なりに考えながら会話を組み立てる…関係者との会話はビジネスの現場では修行のようなものだと考え、自ら進んで様々な人たちとコミュニケーションを取った。

そうする内に同時にコミュニケートする人数が1対多になり、集団の前でプレゼンテーションする機会も増えていった。難易度の高いプレゼンには一定の興奮も覚えつつ、全霊をかけて取り組んだ。

会議を主催し、時には有志メンバーを集めてプロジェクトチームを組み、社内経営陣に提案をぶつける事も増えていった。

充実感に充ちていたあの頃、自分の人生はどんな方向に進んでいるのか考えもしなかった。自分の努力が営業数値以外の何を産み、何を変化させているのかも、考える事は無かった。

だだひたすら目の前の仕事に打ち込み、その姿に疑問を抱える余地は無い。正に無我夢中。

私は兎に角負けず嫌いなので、ライバルが居るほど燃える。先輩社員含め社内全員ライバルみたいなものだ。あいつのイベントはすごい、行動力はすごいと言わしめたい。皆が認める結果を出したい。その為に黙々と企画書を作り、顧客を開拓し、現場を指揮し、担当エリア狭しと休日も返上して飛び回った。

それが社会人としての正しい姿だと信じて止まなかった。

 

◆今になって感じること

 実際、私がどこまで”仕事”が出来ていたのかは分からない。今振り返っても自分が為してきた事には大した結果が出ていない、つまり誰の記憶にも残っていない所を見ると、きっと残念な結果しか残せていないのだろう。

私の思う”凄い”は他人にとって凄い事でなく、ともすれば何の価値もないのだという事を、30歳を超えたあたりから知っていった。

入社当時、居酒屋で定番の「あの時の○○は、実は私が企画したものなんだ」といった類の話は過去の栄光に縋る先輩社員のみっともない自慢話だと作り笑いで聞いていたものだが、よもや自分が酒に酔って若手社員に自慢話をするなんて….。

 

40歳を超え、少しづつ能力の衰えを感じ始めた。

頭の回転が確実に遅くなっている。企画、会議、打合せ、プレゼン…あらゆるシーンで私の思考を若手が追い抜いて行く。

妙な拘りや偏見がトレンドの追及を阻害する。

周りの話についていけなくなり、知らない、出来ないは「悪」だという妙な価値感と「負ける」事への恐怖心も手伝って、部下の何気ない会話にすらグっと身構えてしまうようになった。

頑張って周りについていこうと思うが、いくら勉強しても情報量が多すぎて全てを処理出来ない。

キャリアステップをしっかりと見据えていない行動や経験は…ついてこれない同僚や先輩たちを置いてドンドンと突っ走る仕事のスタイルは…ここに至ってダメージとして実感され蓄積され始めた。

自信は発言や行動をエンパワーする第一の要素だ。

自信を持っているからこそ、様々なシーンでリーダーシップを発揮出来る。これが揺らぐと先ず第一に仕事の上で口数や手数が減る。こうなると、(やや考え過ぎかも知れないが)今まで寡黙を決め込んでいた後輩や諸先輩方が会議でマウントを取りに来るようになったりする。不出来な私に対し容赦なく「負け」を突きつけているという感覚…元々社内でも孤立しがちだったスタンドプレイヤーは、孤独と言うより疎外感を感じるようになった。

 

そして今、私は自分への自信を急速に失いつつある。

 

何の対処もしないままではその内出社もままならない状況に発展しそうなので、この辺りで自分自身について考え直す必要がある。

家長として妻や子供達を養っていく身であるなら、何とかしてこの状況を変えなければならない…。先ず何から手を付けるべきか。

 

と言った調子で今、私は今1人の大人としてどう生きていくべきかを考え直す重要なポイントに立っている。

暇を見つけては今後の事や自分の能力、希望についてノートやブログに書き出したりと足掻いている。ここでは現時点までに思いついた、自信を取り戻すといった難解な課題の対策方法を考えてみたい。

 

◆私の”自信”の正体

 そもそも私が持つ自信とは何だろうか。それはどのようなメカニズムで発生し、消えてしまうものなのか。

ここを整理しないと何も始まらない。

 

辞書によると【自信】とは「自分の価値・能力を信ずること。自己を信頼する心。」とあり、文字通り「自分を信じる」事だそうだ。

これはつまり自信の源泉となるものは外部に存在せず、常に自分の中にしか無いという事を指してはいないだろうか。

 

なぜ他者からの意見や態度、攻撃で自信がこうも揺らぐのか。

 

それは自己評価と他者からの評価にギャップを感じているからであろう。

特に評価の基準を他者との勝敗に求め、勝利する事で他人より優れているという判定が自分にとっての自信の源泉である場合、自信は勝敗の結果に委ねられる。

本来勝敗とは客観的かつ具体的なルールなり判定基準なりが備わっており、互いに公平な条件の下で優劣を決めるべきものであるが、自己評価上の勝敗とは得てして自己中心的なルールや価値基準、判断基準によって為される事が多い。

つまりただの”思い込み”である。

思い込みやマイルールでの勝敗判定は根拠や客観性に乏しく、時間の経過や周囲の変化、或いは他人の意見といった外部的要因であっさりと覆る。

 

自分の自信の脆さはここにある。

 

◆自信をなくした自分と折り合いをつける方法

 

周囲の環境の変化や他人の価値基準は計り知れない。そこに完全な客観性やルールを求め、強いる事は不可能だ。

つまり、自信の源泉をコントロール不可能な外部要因に委ねるうちは、これからも永遠に自信を取り戻す事は叶わないという事になる。

 

ここで最も必要になるのは自分の【意識の変換】だ。

価値基準は自分が持つもので構わない。自分が良いと思えばそれでいい。自分の評価は最終的に自分にしか出来ない。

勝敗の結果に縛られず、自分が成した事を自分なりの価値基準に照らし判定し、結果を承認してやればいい。

そして自分なりの価値基準は世の中をよく観察し、周囲の人間の意見を素直に聞き入れて決めれば良い。

自己評価と他者評価のギャップに苦しむのは、自信に過剰な部分があるからだ。なら過剰な部分を排除して常に学びの姿勢を崩さないというスタンスに変えればいい。いつまでも、生きている限り学びが止む事はない。

好意であれ悪意であれ、他者からの意見や批判など、その言動の根幹には自分にとって何か得るもの、教わるものがあるに違いない。

驕ることなく、消極的な思考を用いず、周囲との関係を注意深く見直せば、自身にとってネガティブな要素は見当たらなくなるだろう。

そうやって少しずつでも学びを積み重ね、磨かれた価値基準を以て自分を承認する事こそ、自信を取り戻す最良の方法であろう。

 

自信の源泉は自分の中にしか存在しない。

辛くとも、自分自身を定期的に見直す事でしか自信を取り戻す事は出来ない。

然しながら、この方法は費用を要しないばかりか単独で、誰にも迷惑をかけずに行う事が出来る。

ただスタンスを変え、自己を承認してあげるだけだ。

 

このように見方を変えれば周囲の景色が一変する事を切に願う。