ミドリ草BLOG

ミドリ草BLOG

擦り切れそうな人間関係摩擦と経営者のワガママ暴言に辟易としつつ自己嫌悪と闘いながら今日も自立を夢見て

倒すべき相手は永遠に倒れない。

3,000文字チャレンジ3回目

 

テーマは「勝負」

 

スポーツの世界では個人であれ団体であれ勝ち負けがハッキリ出ます。どんなに頑張ろうと勝敗が結果であり、より優れた人間が勝者として称えられるシビアな世界です。シビアな世界は、私たちに沢山の事を教え、また強く育ててくれます。

 

私は小学校4年生から高校を卒業するまでの凡そ9年間、「剣道」で汗を流しました。先般のテーマではありませんが、青春時代は常日頃から見事な『フレグランス』を放っていたと思います。剣道部は我が高校でも不人気な部活の一つでしたし、異性からの受けも良くありません。しかしながら私自身臭いモテないなど些細な問題と、なかなか真剣に取り組んでおりました。

 

剣道は割とメジャーなスポーツです。競技人口は2014年時点で約170万人といわれており、この数字は「柔道」の約10倍に当たります。知り合いの中で数人は剣道部出身だったりしませんか?(因みに野球の競技人口は約690万人、サッカーは約480万人だそうです)。

メジャーなスポーツなんですが、剣道のルールを知っている方はあまり見かけません。

細かい部分はさておき、剣道は竹刀で面・小手・胴・突(打突部と言います)に有効となる打突を相手より先に決める事を競うスポーツです。1試合は基本的に3本勝負で2本先取した方が勝利となりますが、ここまでは割とメジャーなルールかと思います。

曲者はこの「有効となる打突」です。

どのような打突が有効となるかは試合や競技者のレベルで変わり、有効打突であるとの判断は原則として審判に大きく委ねられています。審判は原則3人で行い(三審制)、3人の内2人が有効であると認めれば、それが「有効な打突」として1本と判断されます。

ここで言う”有効な打突”とは、『気剣体一致の打突』とされ、充実した気勢、適正な姿勢をもって、竹刀の打突部で打突部位を刃筋正しく打突し、残心あるものと規定されています。

これを読んで ”どのような打突が有効となるか” が分かる人はいないでしょう。

実際経験者でも上手く説明できません。

しかしながらこの ”言葉や文章で表現する事が難しい事” 、竹刀を打突部に当てさえすれば良いといったワケではない所が他のスポーツと一線を画す”剣道の面白いトコロ”なのです。

 

全日本剣道連盟国際剣道連盟は剣道を「精神性の高い”武道”として扱われるべき」と主張しています。少々大袈裟ですが、剣道とは「ルール」より「精神」を重んじるスポーツです。

剣道では精神力を養い、修練を積み、相手を慮り、正々堂々と向かい合う事が求められます。

試合では「礼に始まり礼に終わる」事とされ、最初から最後まで礼節ある行動を求められます。1本取ってガッツポーズをしただけで、相手への礼節を欠くという理由により有効を取り消す、といった判断が下る場合もある程です。

礼節は競技者だけでなく、周囲の観客にも求められます。あまり試合をご覧になる機会は無いと思いますが、剣道の試合では声援や罵声がありません。静粛な環境の中、応援は拍手のみで行われます。

剣道の「道」とはつまり、人間形成の道です。勝敗だけにこだわらず周りへの感謝を忘れず修練に励む事なのです。

剣士を志す上で一番大事にしなければならないのはこの”修練”であり、修練によって自身が得るもの、つまり「相手に勝つこと」よりも「自分に勝つこと」のほうが重要です。

上達し勝利する為には誰よりも沢山練習しなければならないのは勿論、そうして勝利したとしても敗者の前で誇ってはならない。試合は常に一対一で行われるが、勝利は自分だけで為し得たものではない。逆に敗北の理由は自身の中にあると考える。

常に己を律し続ける事で自分を成長させる事こそ、剣道を通じて学ぶべき ”精神” であり、”面白いトコロ”なのです。

(有効打突が言葉で説明出来ないのは、長い修練で身についた”技”が相手に決まった時を有効とするものだからです。言葉上のルールが重要なのではなく、これは同じく修練を積んだ者にしか判断できないものです。剣道の試合風景を未経験者が観戦しても全く楽しめない理由がここにあります。)

 

所で、「自分に勝つ」というのは中々厄介なものです。

我々は根本的に”易きに流れる”生き物です。誘惑に弱く、自分本位であり、自己評価を甘くしがちです。「常に己を律する」のは言葉でいう程簡単な事ではありません。

スポーツの競技者は「もうこれ以上練習出来ない!腕が(足が・頭が)動かない…」といった状況でも、あと一歩踏み出す事で自分の限界値を上げ、ライバルより練習を重ねようとします。修練を終わらせる理由は自分の中では無く、相手や周囲の環境にあります。原則として人より修練を積み上げた者が勝利者となり、修練を諦めた者から順次振い落されていきます。敗北の理由を環境や才能の欠如のせいにして自分を超える努力を怠っている者は勝者とは成り得ません。

 

自分に勝つための訓練は理屈では出来ません。自信の限界を超える努力と結果、つまりは勝利を収めたという「体験」が必要となります。

厳しく自分を律し、日々修練を積んだ結果としての「勝利」を自分自身の成功体験として持つ事で、「自分に勝つ」事の難しさや喜び、達成感を得ると同時に「自分に勝つ方法」を習得する事が出来るようになります。

そうして習得した「自分に勝つ方法」は社会で生きていく上で非常に重要なスキルになります。

 

自分に勝つ事で、我々は我々が望む方向に成長する事が出来るようになっていきます。大きな課題に立ち向う時、何かを習得しようとする時、新しい環境に飛び込む時…。我々は常に自分で自分を超えられるかどうかを試されます。

勝敗が結果であるシビアな世界を経験した者達は、自分で自分を超えた先にこそ勝利があるという事実を経験上知っています。

「勝負」は、常に先ず自分が相手になるのです。

スポーツを経験していない者は自分との勝負に勝てない、といった事は勿論ありません。試しに「練習・修練」を「学習」に読み替えてください。受験勉強等でも同じことが言えるのです。己に勝つ訓練方法はスポーツだけではありません。

 

学生であれ社会人であれ、自分と「勝負」する機会は沢山あります。例えば何かの意思決定をする際にも常に「自分との闘い」が待っています。

しかし、あらゆる場面の全てに於いて自分に挑戦し、また、その全てに於いて勝利しなければならないのか…というと、そうでもありません。そういう生き方もあるにはあるでしょうが、さすがに疲れ切ってしまいます。

 

「大人になる」という事はつまり、”自分との勝負所” を見極めるのが上手になる、という事でもあります。

スルーできる難所はスルーで構いません。逃げて問題ない課題ならサッサと逃走した方が無難です。何でもかんでも全力投球、全力勝負では心と身体が持ちません。

「ここぞ」という時に自分と真っ向勝負し、確実に勝つという事が我々には必要になります。

 

冒頭の「勝負の世界」に於いて、効率的かつ効果的に自分との戦い方や勝利する方法を学べるという点では、どんなスポーツも同じです。私は剣道を通して精神を鍛える修練を行った事によって「忍耐」と「集中」を身に付ける事ができました。これこそ正に「私が私に勝つ方法」です。

忍耐と集中で自分から甘えや誘惑を切り離し、後一歩頑張る事で結果、つまり「勝てる」という事を経験から知っています。

 

社会人にもなると仕事の習熟度と労働密度・労働時間の増加量が比例し、働きながら仕事以外のフィールドで様々な挑戦を行う事は難しくなっていきます。それでも、未開の将来を切り開くために”したい事”、”しなければならない事”は沢山あります。

そんな忙しい日常の中でも我々は「勝負どころ」を見極め、自分の限界に挑戦し、持てる力を総動員して「己に勝つ」事が出来れば、より望む未来が獲得出来るという事を忘れてはなりません。自分を成長させるのは自分以外の何者もいないのです。

 

そうして苦難を乗り越え勝利した先には、更に強大な「自分」が立ちはだかります。

 

自分との「勝負」は我々が死ぬその日まで続きます。