ミドリ草BLOG

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擦り切れそうな人間関係摩擦と経営者のワガママ暴言に辟易としつつ自己嫌悪と闘いながら今日も自立を夢見て

井戸は深く掘れ

3,000文字チャレンジ 4回目

 

テーマは「井戸」

 

「井戸」には用途や工法毎に様々な種類があるそうです。本稿では一般的な井戸の定義に即して「飲用・揚水井戸/堅井戸」に焦点を絞って所術します。

 

実家には未だ「井戸」があります。

高校を卒業し実家を出るまでの凡そ17年間、私はこの井戸から汲み出される水で生活しました。

 

我々の一族の大半は戦後の高度経済成長期に職と居住地を求めて、九州から兵庫県のとある田舎に移住してきたという歴史を持っております(なので実家では未だに九州弁+播州弁という独等なMIX方言で会話します)。

移住の際に複数戸の住居を取得しましたが、買い取った居住地が所属する自治体は当時水道設備が隅々までは普及しておらず、その地域(町)では各家庭の敷地内に設置された「井戸」を生活用水として利用する生活が標準的でした。

井戸水生活は当時別に珍しい事ではなかったと聞いています。

私自身生後間もなくこの兵庫一族と合流し、幼少時より「井戸水」による生活をしていた訳ですが、小学校を卒業するまでは特段不都合を覚えた事はありません。小学校自体は水道水を利用していましたが、水道水であろうが井戸水であろうが、「水」は同じ「水」であり、違いを意識した事もありませんでした。

ただ、中学校に入学する頃から少しずつ水質が変わり、雨の日には水が濁るようになりました。泥が混じるのです。

中学3年生の頃になると家族の中で頻繁に体調不良を訴える者も出てきました。水質調査を行うと、基準値を大幅に上回る”大腸菌”が検出され、井戸水は雑用水となりました。

飲用には貯水タンクを設置して給水してもらうという方法を取りましたが、高校に入学して暫く後、遂に水道設備を敷設。そうして我々の井戸はその役割を終えました。

 

今現在は涸れ井戸となってしまい、揚水井戸としての機能は収去されています。残るのは地表から僅か1メートル程立ち上がった円形の井管とトタンの蓋のみ。

役目を終えたとはいえ長年我々の生活を支えてくれた大事なライフラインであり、家族を守ってくれた井戸ですので、完全には撤去せず”井戸としての姿”は未だに残しております。

現在では兵庫に移住してきた我々一族の象徴として、身内から賽銭を奉納される"有難い存在"となるに至りました。

 

 

さて、そんな「井戸」はその孔底深度(深さ)によって ”浅井戸” と ”深井戸” に分類されます。

 

【浅井戸】

  • 孔底深度が浅く(地域により異なるが10メートル程度)不透水層(=岩盤)の上にある地下水を取水する。
  • 岩盤の上の地下水を利用するため周りの環境によって水質や水量が変化しやすい。
  • 岩盤を掘削しないことから工事費用が比較的安価で、掘削工事も短時間で済むため手軽に掘ることが可能。
  • 一般家庭の井戸はほとんどこのタイプに該当する。

 

【深井戸】

  • 孔底深度が深く(地域により異なるが20-30メートル程度)不透水層(=岩盤)の下にある地下水を取水する。(深い所の地下水を利用するという意味ではなく、固い岩盤の下の地下水を利用するというもの)
  • 岩盤の下の地下水は周囲の影響を受けにくく安定した水量と水質が得られる。
  • 一年中水温が一定で夏冷たく冬温かく感じられる。
  • 固い岩盤を掘るため工事費用が高額になりやすい。

 

一般家庭では ”浅井戸” が良く利用されているそうですが、水質や量、温度が安定しない為に飲用には用いられず、雑用水として使われる事が多いようです。(震災対策の一環で「災害協力井戸」として市町村に予め登録し、震災時は飲用以外で利用出来るようにしておく事を自治体が呼びかけています。)

しかし、井戸から得る水を”飲用”とするならば、それも大勢の人間の飲料水に対する需要の充足を目的とするならば、堅く厚い岩盤をも貫く程の掘削工事を行わなければならず、コストと工期、難易度は跳ね上がります。底には越えなければならない「大きな一枚の壁」があるのです。

 

なるほど石川理紀之助の「井戸を掘るなら水が湧くまで掘れ」という名言の真意はどうやらここにありそうです。

 

「井戸」は掘削する深さ(難易度)によって採取する水の性能と量が変わります。例えば小さい範囲の人間(家族等)を対象とし、本来水に望む用途を一部制限するのであれば浅く掘って出た水でも良い。

しかし多くの人間を対象とし、飲料水として利用するというニーズをも充足させるならば、つまり純粋な「水」を求めるのであれば、只深く掘り進むだけでは足りない。

「水が湧くまで掘れ」とは、堅い岩盤を貫き更にその下にある「純粋な水=最大の成果」が出るまで堀り進めよ、という意味なのです(たぶん)。

 

 

そういう意味に於いて、「井戸掘り」とは「自分と向き合う事」そのものだと言えます。

 

地表に立った我々は、今現在様々な問題や課題の中にいます。周囲には複雑に絡み合った利害関係や人間関係が犇めき合って存在し、生活環境は風切り音を発するかの如く急激なスピードで変化しています。

様々なものが目の前や後ろを高速で通り過ぎていく様はまるで都市部を襲う巨大な竜巻の最中さながらです。

このような環境下、”ぼーっと突っ立っている” のは得策ではありません。全員まとめて上空へ巻き上げられ、挙句バラバラにされてしまいます。我々は傍観して立ち尽くすのでは無く、逆境と『勝負』し勝って全員で生き残るための「強さ」を手に入れなければなりません。

 

私はこの「強さ」を手に入れるためにも「己の深堀り(自掘:じくつ)」が必要だと考えています。

 

自掘により「今、何が必要とされており、私には何が出来るのか」という事を各々自身で考え、課題を抽出し、仮説を立て、解決法を考え、目標を設定する。井戸を掘る様に少しづつ考えた方法を目標に向かって実行する。

 

掘削が浅いうちは周囲からの雑音が絶えず聞こえます。激しい雨風に晒されたり、時には別の勢力から圧が加わったりもします。そんな周囲からの悪影響により、せっかく自掘して建てた目標や信条に自信が持てなくなり、正しいと信じることが出来なくなってしまうと、掘り進む事を諦めてしまいます。

途中までは掘削したのだから、止めた時点でも何かしらの結果は出ます。「水」は出なくとも、得た経験を以て別の何かに挑戦できるでしょう。

もし「水」が出た(成果が出た)のなら、「濁り」を注意深く確認し、使えるものであれば恩恵を周囲に及ぼすことが出来ます。但し浅い孔底では成果が安定せず、得るものもいずれは枯れ果ててしまうかも知れません。

 

雑音や圧を排除し純粋な目的に迫ろうとするならば、そこには大きな壁が行く手を阻みます。岩盤はとてつもなく大きく、一筋縄ではビクともしない強度を誇り、いつ貫通できるか分からない厚みを持っています。

 

これを突破した人々のみが、皆を救う「水」つまり大きな成果を得るのです。

 

口径1メートル程度の井戸を掘削する作業を想像するとき、それは孤独で暗く、辛いもののように思えます。正に「自分との闘い」とは孤独なものです。最大限の努力が報われず、敗退してしまう可能性もあります。

しかし今は同じ方向を向いている人々が色々な姿形で繋がり合い、意見を交換しながら賑やかに目的地に向かうことができる世の中です。江戸時代の井戸端会議から長い時間をかけ、先人達の深い井戸から得た知見や技術により我々のコミュニケーション環境は大きく進化を遂げています。

 

井戸を掘るなら水が湧くまで掘れ。

 

諦めずに自分を信じて最大の成果を目指せ、というこの名言に沿う行いを、今は気の合う仲間同士で実行出来る(かもしれない)素晴らしい環境もまた、我々の時代にはあるのです。

 

だから、何も恐れず信じた道を掘り進め、我が子供たち。

 

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あと1週間と少しで我が家の長男は高校受験。

志望校を決めるまであれこれスッタモンダしましたが、漸く本人が行きたいと望む高校が見つかり現在必死で追い込み受験勉強に取り組んでおります(ガックンガックン居眠りしながら)。

彼と彼の友人達、そして私の妻や子供達がきっと大きな成功を掴み上げるであろう事を願って止みません。