「メンドくさい」というモンスターへの対処方法
年に数回は必ず、「全くやる気がしない」日がある。
平時は、半ば機械がプログラム通りに動作するが如く定刻に起床し、出社準備を整え、気が付けば会社のデスクに座っている。
たまに通勤経路を変えてみる等の刺激を意識して自分に与えないと、本当にロボットになってしまいそうで注意が必要だ。
しかしながら、この「全くやる気がしない」日になると出社準備すらおそろしく「面倒」になり、脳裏に「ズル休み」の文字がチラつく。部下の顔も上司の顔も、想像するだけで”暗澹となりまさる胸の中”である。勿論出勤はするのだが、デスクに座っても一向に何もする気になれない。一挙一動全てにおいて「メンドくさい」モンスターに支配されている状態だ。
(果たしてこの問題は自分だけだろうか。他にも同じ経験をした人は居ないのだろうか。)
私の中で「メンドくさいモンスター」は非常に大きな日常のリスクであり、なるべくなら会いたくない、回避したい「トラブル」だ。
このモンスターのせいで過去、幾度となく苦い経験をした。
とにかく全てが面倒臭くなるので、通常出社してから当たり前のように行うであろうメールチェックやスケジュール再確認、手配や確認業務もすべて後回し。
つまり一日のスタート直後から”後手”に回る。
後手に回った状態がもう「メンドくさい」ので、何かと理由を付けて外出し、近所の喫茶店に逃げる。逃げてジャンプを読んでいる間に事態が進行し、深刻化する。社に戻ったときには大炎上している。
結果、キレた顧客や上司を相手に火消しをしなければならないので、余計「メンドくさい」事態になる。
1年に数日とはいえ、こんな事を繰り返していては信頼関係はズタズタになりかねない(というか決定的に信頼関係が破壊された場合もある)。
何とかこの「リスク」を回避できないものか……と自分なりに色々考えた。
「メンドくさいモンスター」はある日不意にやってくるもので、自分でも予測がつかない。つまり事前に対処できない。
難しそうなマインド訓練や、複雑なツールを使うような方法では「メンドくさい」状態では絶対に実行できない…。
そうして試行錯誤した結果、簡単なツールで、なんとか効果のある方法を見つけたので、以下に記そうと思う。
①とにかく逃げる
自分なりに「メンドくさいモンスター」が到来する日を分析してみると、切迫した仕事があったり、忙しくて首が回らない状態の日にはモンスターは訪れないことが分かった。どうやら緊張の糸が切れた後、例えば年度の変わり目や大きな仕事が山を越えた後に訪れる可能性が高い。
つまり朝一番から外すことができない緊急性の高いタスクがある日にはモンスターは訪れないが、少し暇になった日、仕事に余裕のある日に不意に訪れるという事だ。この特性に先ず着目した。
仕事に余裕があるのだから、朝一番から喫茶店(避難所)に逃避しても、直ちにトラブルにはなるまい。
なら何も考えず、モンスター到来日は朝イチから一目散、職場から逃げる。
面倒臭い職場環境から一旦離脱する。
卑怯なようであるが、これがモンスターを迎え撃つ大切な第一歩だ。期を逃せばその日は全てがグダグダになり、最悪な一日になってしまう。
私は経験則から避難時間を1時間と設定しているが、場合によっては伸長する。
とにかく逃避1時間少々という時間の中で、すばやく、しかも簡単な方法でこのモンスターを退治しなければならない。
②すべてを一旦「外」へ出す
解決方法はズバリ「書き出す」。これのみ。ノートとペンだけで出来る。
とにかく思いつくまま「メンドくさい」と思う事を書き出していく。少しでも面倒くさいと感じることがあれば全て書き出す。口うるさいクライアントへの電話確認や上司への報告、資料の作成メール返信等々…。
書き出すときのポイントとして、「メンドくさい」ことはページの左半分、一行につき1つづつ書くようにすると良い。
書くだけ書いて、もう出ないなと思った時点で第一工程は終了だ。
③理由を書きだす
つらつらと書き出した「メンドくさい」事の右側に、それぞれ対応した「メンドくさい」と思われる理由を簡単に書いていく。
1つの「メンドくさい」に複数の理由があってもいいし、文章が長くなってもいいので、とにかく思いつくまま理由を書いていく。
この時のポイントだが、理由を深く考えてはいけない。逆に、理由を書かないのはNGだ。何でもいいので全ての「メンドくさい」に理由を付けていく。
④優先順位を決める
「メンドくさい」事と、それに対応する「理由」が全て埋まれば、後は書いてあるものを眺めて今日処理するタスクを決める。どうしても手を付けたくないタスク且つ今日しなくても後日フォローできるものは、当たり前だが別に今日しなくても問題ない。
簡単に処理できる、若しくは締切が切迫しているタスクを優先して今日処理するものを決めていく。
以上の作業を、コーヒーを優雅に飲みながら1時間かけて仕上げる。
「メンドくさいモンスター」を退治するという事
上記①~④の作業をこなす事によって「メンドくさい」が解決するわけでは無い。
ましてやモンスターが綺麗さっぱり退治できるワケでもない。面倒臭いものは面倒臭いままだ。
しかしながら、上記手順を経る事によってモヤモヤした頭の中がクリアに整理される。整理されると気分も変わる。この「気分が変わる」が作業の目的だ。
「メンドくさい」理由を改めて読み返してみると、実は「大した事じゃない」事が多く、悩むほどの理由がない事に気付いたりもする。
あとは社に戻って優先順位に添って機械のようにひたすら処理していくだけ、である。
手順を経る事でその日の仕事量が可視化され、且つ順番も整理されている。
憂う理由は不思議と小さくなっている。
「メンドくさいモンスター」とはつまり自分自身であり、要は気の持ちよう、気分転換が一番有効な方法なのだ。
社会人になって勉強する時に注意すること(2)
※(1)からの続き
③「成功=勉強量」という当たり前の真理を知るべし
記憶力や理解力など、所謂合格ラインを超える実力に達するまでの勉強量には個人差がある。
しかし、このあたりの能力を図る正確な基準やテストは一般的には存在しない。つまり、自分の能力は自己評価でしかない。曖昧な自己評価を基に勉強量を決定すべきではない。
最も客観的かつ絶対的な勉強量の測定方法は「勉強した時間」以外に無い。
資格試験勉強を始める前には、どんな人でも「難易度」を調べると思うが、いろんなサイトで難易度の解説と同時に「必要となる勉強時間の目安」が紹介されている。これを基に必要な勉強時間を割り出すことが出来る。
例えば、必要な勉強時間の目安が2,000時間と紹介されていたとすると、自分が目標とする勉強総時間は4,000時間になる。つまり2倍だ。これを最低の勉強量に設定する。
基準となる目安の時間に関しては、調べた中で最も高い数値を基準に据えるべきだ。
ここで言う勉強時間には、仮に予備校に通学した場合、予備校での授業時間は勉強時間にカウントしてはならない。あくまで自分1人で勉強する時間の総量である。
この「勉強時間の総量」を甘く見積れば、失敗する可能性は飛躍的に高くなる。
総量が分かれば、後は平日に消費できる勉強時間と休日(予備校以外)に消費できる勉強時間とを勘案して、次回試験日に間に合うかどうかで受験日を設定する。
参考として、自分が社労士の勉強をした際は下記分量を18ヶ月続けた。
- 平日勉強時間:6時間
- 土曜他休日勉強時間:12時間
- 予備校通学時勉強時間:6時間
- これに+αで会社の休憩や喫茶店でのサボり時間:2時間
- 開始時からの総勉強時間=約3,800時間+α
社労士合格に必要となる目安時間は800~1,500時間と紹介されているが、優に2.5倍の勉強時間を確保し、実際これを実行した。結果、1度の受験で合格した。
業種により平日に消費できる勉強時間はバラつきがあると思われるが、プライベートを全て勉強時間に当てることができれば、かなりの時間が確保できる。
勿論、家族との時間は全く無く、会社での飲み会や接待も、どうしても必要になるもの以外全て排除した。会社の同僚や上司の理解を得ておかなければならない理由はここにもある。唯一の楽しみは文房具を買いに行く時くらいだ。
合格に必要なもの、それは頭の良さではなく「圧倒的な勉強量」に他ならない。
④受験勉強に味方はいない。One man armyを目指すべし
予備校に通っていた頃、よく一定の集団が合同で勉強会なるものを開いていた。一時期福岡の予備校に通っていた頃などは、クラス全員で名簿を作り、代表幹事役が合同勉強会の日程をクラス全員にメールで一斉配信していた。合同勉強会の後には懇親会と称した軽い飲み会も開催されるという。
私はいつ、いかなる場合も「みんなで勉強しよう」的な会には参加しない。
難易度がある程度高い資格試験になると、絶対評価ではなく”相対評価”で合格者が決まる。となると、周りにいる受験生は全員”敵”なハズだ。敵となれ合い、手の内を明かすのは自殺行為である。
受験勉強は確かに孤独である。
同じ目標を持った周囲の受験生は、なんとなく「仲間」と思いたくなる。分からない所はお互いに教えあって補完しあえば合格する確率も上がる、と思うのも無理はない。が、それは自分への甘えだ。合格したいのであればこの甘えは徹底的に排除しなければならない。
勉強するなら「1人」でするのが絶対条件だ。
周りの受験生は、自分の進捗度や実力を図るための存在でしかない。合格率が10%の試験なら、周りの受験生の上位10%になるまで勉強の手を緩めてはならない、といった指標として認識すべきである。
周りのヤツより勉強すれば確実に合格する。常在戦場。勉強は自分との闘いなのだ。
もう一つ。ネットでも予備校でも、「n回転」組が存在する。1度で合格できず、2度3度と受験勉強している組だ。この者たちの意見は絶対に参考にしてはならない。確実に失敗する。合格に受験経験は関係しないし、方法論も無い。
あるのはただ「圧倒的な勉強量」のみである事を忘れてはならない。
⑤「神頼み」は馬鹿にできない
最後に「神頼み」について。
私は受験前に必ず大宰府まで赴き、合格祈願のお守りと合格祈願文具を買うようにしている。あと、亡くなってしまった祖父や祖母にも合格を祈願する。
仕事柄福岡に行くことが多いのでこの方法がとれるだけで、一般的には近くの神社でも良い。在阪なら大阪天満宮をオススメする。
理由は特にないが、いざ戦場に赴く自分への「気分の締め直し」という意味でも有効である。
悲しい事だが、受験には必ず「運」が必要になる。難易度にもよるが、難しい試験である程、試験範囲を全て網羅することは不可能になる。必ず”無勉の隙”が生じるのだ。
社労士試験では「一般常識」という名を借りた「非常識」な問題がでる。昨今問題となっている「統計」を問う問題だ。
厚生労働白書を丸暗記している受験生などまずいない。ここで知らない箇所が出題されると、その年の試験はアウトとなる。
正に「運」との勝負なのだ。
神頼みの有用性がどれだけあるかは分からないが、自分の経験則として必要な手順に加えて置く。
壮絶なバトルを制した先に何を思うのか
経験者は知っていると思うが、資格試験に合格するという事は本当に大変だ。
大なり小なり犠牲を払い、誰からも尊敬されず、誰得な勉強をたった一人で黙々と継続する。中には失敗する人もいるだろう。
通常、国家資格は1年に1日しか試験日がない。失敗すればそれまでの努力が水泡と帰す。リアルに大泣きしている人を何度も見た。「また来年頑張ればいい」とは簡単には言えない。
そんな大変な苦労を超え、狭き門を潜り、見事合格した先に一体何を得るのか。
それは「自信」である。
合格は自信に直結する。得た称号を活用出来なくとも、ここで得た自信は今後の人生に於いて大いに意味のあるものになる。周囲からの見た目ではなく、自分で自分をみる目が確実に変わる。「やれば出来る」という実感は、今後の人生の荒波から自分を幾度も助けてくれるに違いない。次の挑戦もきっと成功に導いてくれるだろう。
シンプルだが「自信を持つ」という事は大事だと思う。
私はこれまでに、職務に関係の深いものから全然関係ないものまで、様々な資格試験を受験してきた。
役にたっているものもあれば、そうでないものもある。しかし、勉強に対する自信を身に着けることはできた。勉強して経験を積めば大抵の事は何とかなるという事を身をもって経験してきた。
正しい勉強法や効率的な勉強法は存在しない。自分のやり方で問題ない。
よく周囲から、「どうやったら合格できるのか?」という質問を受けるが、答えは一つ。
「勉強したら合格するよ。やるかやらないか、それだけ。」
社会人になって勉強する時に注意すること(1)
昨今、電車の中や新幹線の中で、自分より年長者であろう会社員の方が黙々と資格試験の勉強本を読んでる姿を目にする機会が増えたような気がする。
なぜ「資格の勉強本を読んでいる」かが分かるのか…それは、自分も資格の勉強本等で勉強したクチだからだ。
本の厚みや大きさ、カバーを裏返しにして何の本かを隠す行為(これは皆するんでは?)や、鉛筆や蛍光ペンで引かれまくったアンダーラインを見れば一目瞭然。
いい歳したサラリーマンが「何を今更勉強なんかしてんだ?今さらそんな資格取ってどーるの?」という批判に怯えながら、スキマ時間を活用して難解なテキストと格闘している。失敗した時に要らぬ恥をかかないよう、会社でも勉強していることは内緒にする。
ただ、これは持論だが、こんなスタイルで勉強してると受かるものも受からない。
せっかく貴重なプライベート時間を勉強に費やすのだから、頑張って勉強してる人々には是非とも結果を出してもらいたい。何をもって結果とするかは人それぞれだが、もし資格取得を結果とするなら、試験に合格する方法は「短期で合格」「簡単に合格」といった煽り文句が書かれた勉強本には絶対に書かれていない。
以下、自分が資格取得を目的として勉強した際に思った事や気を付けた事を書いていく。
①まずは想像力を働かせて「かっこいい自分」をイメージ
社内で資格勉強をしている者が居ないわけではない。たまに話を聞く機会もある。
だが往々にして、「この人何のために勉強しているのだろう」と思う。
勿論、勉強で得た知識を現在の職務に役立てるため、若しくはそもそも該当する資格がないと出来ない職務につく予定があるため、といった理由もあるが、取得した称号は会社ではなく「自分」に属する。苦労して得た称号と経験で、自身のキャリアが広がる。
勉強はすべからく自分の為にするものである。成果は全て自分1人が受け取る。ここをしっかり理解していないと勉強に耐え抜くだけのモチベーションが保てない。やらされ勉強では結果は出ない。
書店の資格勉強本コーナーの前に立つと、今でもワクワクする。
資格を取得した後に待っているであろう輝かしい未来や、「先生」と呼ばれる職業(実際は呼ばれない)に就き、周りから尊敬の眼差しを受ける自分を想像してしまうからだ。何より「国家資格」という名称にドキドキする。漠然と、「すごく難しい何かを成し遂げた者への称号」としての特別感が漂っていると感じる。
実際、資格を取得したからといってすぐ仕事に繋がることはあり得ない。将来の希望に繋がるかどうかは取得してから幾多の地獄を潜った後の話だ。
しかしながら、このワクワクは絶対大事にしなければならないと思っている。自分の将来への期待がそのまま勉強のモチベーションとなるからだ。と言うよりこれ以外のモチベーションの源泉が無い。
資格取得後の厳しい現実はさておいて、まずは「受かれば凄い奴になれる」という想像を限界までしておくことが受験合格の第一歩だ。資格受験勉強をする方はこのイメトレを徹底する事を強くオススメする。合格の成否は成功イメージをどれだけ強く持てるかで決まる。こんな簡単でアホらしい事で、実際に合格にグッと近づく。
②周りや家族の反対を押しのけ、多大な犠牲を払う
受験勉強は、やろうと思えばいくらでも長期化する事が出来る。逆に言うと短縮する事も可能である。ただ、世の中上手い事出来ていて、原則払った対価に応じた成果が手に入るようになっている。受験勉強に於ける対価とは「時間」と「金」だ。
時間を節約し、短期間で合格を目指すのであれば「予備校に通う」といった選択肢があるが、時間をかけても良いのであれば「独学」といった選択肢がある。
まずは取得目標である資格の難易度と、かけても良い時間、費用のバランスを考える所から勉強スタイルを決めていくことになるが、社会人、特に中高年は圧倒的に「時間」が無い。
必然的に「金」を対価として支払い、時間を稼ぐ選択を強いられることになる。
個人的にも予備校に通うのが最も良いと思う。時間短縮以外にも得るものが多いし、何より多額の費用を払ってしまえば失敗した時のリスクも増大し、勉強を怠ける言い訳が出来なくなる。借金して学費を払えば尚効果的だ。
受験する資格の難易度にもよるが、宅建より難易度が高い資格であれば、迷わず予備校に通う事をオススメする。
それともう一つ。受験する事を同僚や友人に言いふらすのも非常に有効なリスクだ。私は受験日まで伝えるようにしている。昼休憩時にも自席で堂々とテキストや問題集を開いて勉強する。(因みに私は覚えた知識の理解度を図るため、同僚を捕まえては覚えた部分の説明をしたりもした。相手の理解を得れるような説明が出来ない場合は、自分も理解できていないという証拠になる。)
勉強を始める際、マゾの境地で取れ得るリスクは全て取った方が良い。モチベーションにはムラがある。必ずサボりたくなる。そんな時の防衛策が払った代償、つまりリスクだ。
※(2)に続く
「従業員は家族です」という経営者の発言について思う事
先日、とある管理職会議にて社長が言った一言。
「私は、社員は家族だと思っている。」
まぁまぁ聞くこのフレーズだが、ついにウチの社長も言い出したか…と。
「脱社畜ブログ」管理人の日野瑛太郎さんも、「社員は家族」について言及されている。そして個人的にも日野さんの意見には概ね賛成である。
(詳しくはこちら)
例えば大手居酒屋チェーンの某CEOも同じことを雑誌か何かのインタビューで語っていたが、その会社は苛烈な労働条件により過労自殺者を出し、連日メディアを賑わせた。
それでも社長がついつい言ってしまうのであろうこのフレーズ…。言わんとする所も分かるだけに、残念でならない。
そもそも「家族」とは何か
どの国でも「家族」という言葉は特別な意味を持っている。
共通してイメージされるのは「最も精神的な繋がりが強い一つの集団」ではなかろうか。
あくまで原則だが、家族は強い信頼で互いに結びつきあっており、同じスペースで寝食を共にし、1人の問題は家族全員の問題として処理される。上位者である親、年長者は下位者である子、孫に時間や財産を与え、下位者はより下位者に与える。そこに「損得」という概念や厳格なルールは無い。
法的にも「家族」であるといった事のみで自然と認められる権利や義務が山ほどある。
夫婦であれば貞操、扶養の義務が自然と生じ、契約といった手続きを経なくとも財産は共有となる。
また、子が他社に与えた損害を親が賠償する。親はデフォルトで「保護者」と呼ばれる。
最近はこの「家族」の常識が通じない場合も多々と発生しているが、概ねどの国でも「家族」と言えばこんな感じだろう。
権利や義務が自然と発生する替わりに、法律は家族の中に不要に割り込まないように設計されている。例えば子が親の金を盗んだ場合などは「違法性が阻却される」事になっている。親が子を平手打ちしても傷害罪にはならない。労働基準法でも家族経営の会社で働く親族は原則として労働者に当たらないとされ、大げさな話だが給料を払わなくても労基法違反や最低賃金法違反にならない。
(因みにちびまる子ちゃんの「ひで爺」は家事使用人として労基法の適用が無い。爺に指示を出すのは花輪家の奥さまや花輪君。労基法が適用されるとなると、法違反があれば指示を出した奥様や花輪君に罰を与えることになる。そうならない為に家事使用人は労働者から除外されている。)
挙げればキリがない程、社会的にも家族として特別な扱いを受けている事は多い。あまりに自然すぎて意識出来ないだけだ。
確かに、従業員を「家族」として扱う場合、法的には賃金を低く抑え、法定労働時間を超えて仕事をさせても違法にはならない。会社が儲かっていないなら、全員で給料をもらわず、しゃにむに働くのが当然だ。だって「家族」なのだから。
会社を辞める、辞めないの選択肢も無い。そもそも契約自体が無い。家族だから。
理不尽に怒られても、ちょっとくらい殴られても文句は言えない。なんてったって家族なんだから。
会社の社員を「家族」だと考える、という事
おそらく世の経営者は上記のような発想で「社員は家族」と言っている訳ではない。
家族と同じくらいに従業員の事を大事に考えている、くらいの意味であるはずだ。それくらいは誰でも分かる。
「ウチの会社を去ったとしても、余所で困らないようにシッカリと育てよう」
「困りごとには可能な限り対応してあげよう」
「儲けは出来るだけ従業員にも還元してあげよう」
そういった【優しい気持ち】で従業員と接していこうという意思の表れだと思われる。コレはコレで良い事だし、従業員としては有難い事だと思う。
しかし個人的にはやはり「社員は家族」という考え方を受け入れる事ができない。
軽々しく「家族」という言葉を仕事に持ち込みたくない。
我々従業員は「労働契約」で働いている。仮に奇跡が起こって莫大な利益を得たとしても、それは個人の収益にはならない。なぜなら「契約」で「賃金」をもらっているからだ。利益とは株主に配分されるものであり、我々従業員がもらうものではない。
同じように、我々は「労働契約」に則って労働力を提供している。限りのある労働力を会社に「売って」賃金を得ている。
労働の根拠が「契約」である以上、解除も可能である。この場合、労働者側は労基法により原則自由に解除できることになっている(有期雇用契約は一定の制限あり)。
精神や身体を壊してまで会社に尽くす理由はどこにも見当たらない。
私は、会社で仕事を頑張るのは「自分の為」だと思っている。図らずも長時間労働や休日労働になった場合は「他の人より沢山経験値を稼げるぞ」と思って仕事にあたる。
難しい仕事や金額の大きいプレゼン等は、「レベル低いうちにちょっと遠くの町まで冒険に出かけたら強力な武器を手に入れて俺TUEEEチャンス到来」と思って挑戦した。
ハイリスクハイリターンである仕事に率先して突撃したのも、全て「自分の為」だ。
非効率な作業で自分の時間が奪われるのは、レベルが高い状態でスライムと戦うようなものだ。時間がもったいない。
自分が強くなればなる程、自分や家族の将来が安定すると信じている。安定の為に自分の健康やメンタルヘルスはちゃんと自分で管理する。
よって会社の為に奉仕するという考え方は自分には皆無であり、家族という意識はとても持てない。
自分本位のただのワガママ社員だと思うが、自分の利益(キャリアや賃金)と会社の利益(役務提供や利益獲得)が合致するからこそ、契約を結んで会社に所属するものだと思っている。
だから、社長はこう言えばいいのではないか。
「従業員は業務遂行の上でのパートナーだと思っている」。
研修というブルジョワタイムについての私見
本日、公正取引委員会が開催する「下請法基礎講座」を受講するため、徳島県の鳴門市まで行ってきた。
私は社内研修を企画、実施するというのが職務の1つだ。
毎年色んなカリキュラムを考えては情報収集し、時には専門機関に通ったりして研修内容を組み立て、テキストを作成し、毎月1回のペースで社員全員に「勉強会」という名の研修を実施している。
そして予算の都合上、外部から講師を呼ぶ事は少ない。
色んなネタを用意してみたが、社員の集まりは正直な所悪く…出席率は全体を通して40%を超えた事が無い。当然経営層からは毎回厳しいお言葉を頂くし、仕事上の目下1番の悩み事となっている。
1つの研修が完成するまで色々ある
今回は社長の「鶴の一声」により、下請法を研修テーマとして取り上げる事となった。
下請法下請法……本屋に行って下請法の書籍を数冊ピックアップして購入し、当社の事業内容に照らして参考箇所を特定し、要点をまとめて、2時間程度で話せる容量にテキストを作作り込む……といった作業が想定されるが、そうなるとかなり時間を使うし、法改正があれば作ったテキストをアップデートして全員に再配信するのも効率が悪そうだ。
何か系統だって基礎的な部分だけ教えてくれるような重過ぎない外部研修は無いかと探した所、あった。
毎年、公取が実施してくれていた。
資料も配布されるだろうし、そのまま使えば法的にも100%合致するだろう。何より自分で資料を1から作らなくてもいいし、毎年参加すれば資料を自分でアップデートする必要も無い。
これはしめた!と昨年中に申し込んでおき、徳島県鳴門市に出向いた。
研修は公正取引調査官なる人が講師となり、実務上の注意ポイントを、過去に扱った事例等を交えながら分かりやすく講義された。
お世辞抜きに分かりやすくて良い研修だったので、法律はもとより研修の作り方自体も凄く勉強になった。
不都合な真実は適度に調整を
さて、この「下請法基礎講座」で得た内容をそのまま会社で研修するとどうなるか。
「…当社は発注段階に於いてバリバリの違法状態です。」という事を社員の前で研修を担当してる同じ会社の社員(つまり私)が言う事になる。
これでは良くないと言う事で、研修内容は事前に役員を含む関係者に相談する。
法に適合していない、若しくはグレーな部分は研修ではカットしたりソフトな伝え方にするよう調整します、という調整手順を挟む事になる。法律系の基礎研修は必ずと言っていいほどこの手順が付きまとうのは、当社だけではないハズだ。そして、ココが何より大変で面倒臭い。関係者の思いや考えがバラバラだったりするからだ。
また、正確な法的知識を身につけた社員からの造反を関係者は異常に警戒する、というのもある。これは労務系の研修の時にその影響が如実に現れる。
正確な知識を社内に流通させ、世の中のルールに則って営利活動を継続的に行うようにするための法律系研修であるハズだが、当社では最終的に忖度の塊になった上で皆にアウトプットされる。だとすると、そもそもこんな研修に、果たしてどれ程の意味があるのか…。
少しづつでも関係各所に働きかけ、適合しない部分を”出来るだけ”正すようにしなければならない。明日からも頑張ろう。
まぁ…100%法律遵守っていうのもあまり現実味は無いんだが。
社員研修を通じて学ばねばならない事
私は2年前までバリバリの営業マンだった。入社以来法人営業部に所属され、忙しい毎日を過ごした。その頃は現場での経験を最優先させ、社内の研修なんて受けるだけ時間の無駄だと考えていたし、何なら朝礼や会議の類も極力参加しないようにしていた。なので研修に参加しない気持ちも分かりすぎるくらい分かる。
だから、当時の自分に言ってやりたい。
学ばない者には成長は無い。
研修では現場で経験出来ないような事も勉強できる。より多くの学びを得る事は自身の見識を広げ、仕事は勿論の事、自分自身の今後の人生に役立つ。
学びは最も安価で安全なドーピングだ。その機会を無視するなんて勿体ない。
(そういう意味では研修担当者が1番得をしている。)
企業面接で学歴を問うのは、別に良い大学を出ているから頭が良いだろう、という基準だけではない。
勉強に費やせる時間は皆同じだ。
同じ時間の中でより効率的に勉強し、より高い目標をクリアしたかどうかを問うている。
効率的に勉強する能力があり、学びに貪欲な人間は成長意欲さえキープ出来れば優秀な人材に成長する可能性が高い事を企業は知っている。
”学ぼうとする姿勢”こそ、我々社会人に必要な事であり、学ぶべき事だと思う。
続 ・ハラスメント問題
先日、某大手企業の上級管理職の方とお食事を1席共にさせて頂いた。
その時のお話を少々。
とある飲み会にて。
酔った部長が特定の部下の仕事について、皆の前で叱責した。
翌日その上司は叱責した部下に謝罪を申し出たが、当の部下は謝罪を受け入れず、結果、パワハラ被害として役員に申告。数日の調査の後、部長のパワハラが認定され、降格処分を受けた上、その部長は他拠点に異動となった。
事実のみ並べると、さもありなんと思う方が大半であろう。上記はパワハラの典型例で、事例としては珍しくない。
しかし、事案の背景や詳細にこそ、問題の本質が潜んでいる場合は多い。
事案の背景と、ちょっとだけ詳細
叱責を受けた部下は与えられた職務内容を十分にこなす事が出来ず、仕事の進行の仕方について上長より度々指導を受けていたが、自分の仕事の仕方こそ正解と信じて指導に従わなかった事で、部内でも問題視されていた。
一方叱責した側の部長は、強引な部分はあるが成績も申し分なく、事業所開設以来最高高の売上を達成しようとしていた。部下の信頼も厚く、皆より率先して仕事に取り組むような人であった。
酔った勢いとは言えど、皆の前で特定の従業員の尊厳を傷付けた事に気づいたその部長は部下に謝罪をしようとしたが、部下は「もう二度とあの部長とは話したくない」と謝罪を拒否、パワハラ被害申告に至る。
パワハラ被害申告を受けた役員は調査に乗り出した。ハラスメント委員会を招聘し、当事者への聞き取り調査を実施。
ハラスメント行為者である部長は、自身のした行為に非がある事を素直に認め、言い訳はしなかった。
ハラスメント被害は認定され、叱責を受けた部下の言い分は全て通った。
部長は早々に転勤したが、叱責を受けたその部下は、その後も仕事のやり方を改めず、社内では同僚に対し「部長をパワハラで飛ばしてやった」と言ったという。
ここで悪者が加害者から被害者、もしくは加害者を擁護する視点に変わった諸兄、ぜひ注意してもらいたい。昨今話題の「明石市長の暴言」に関しても、上記の例のような背景があったかもしれない。あったとしたら泉市長の暴言は許容されるのか。
私は、パワハラ問題の本質は「誰が悪かったか」ではないと思う。
パワーハラスメント防止対策についての考え方
平成30年 雇用環境・均等局「職場のパワーハラスメント防止対策についての検討会報告書」によれば、
- 優越的立場で行われた
- 業務の適正な範囲を超えた
- 身体/精神的苦痛を与えた、若しくは就労環境を害した
また、厚生労働省が実施するハラスメント被害防止対策研修では、特にパワハラに関しては事前に従業員に対してハラスメント発生状況や意見等に関するアンケート等の調査を用いて情報収集し、現状を確認の上労使間協議を以てパワハラ認定基準を企業内で策定し、どういった行為がパワハラにあたるのかを社員教育等を通じて従業員に十分周知する事とさている。
勿論、懲罰の軽重に関しても慎重に決定しなければならない。下手をすると労働紛争に発展する。
被害が発生した場合は行為者/被害者/第三者への聞き取り調査を行う事になるが、その際必ず留意しなければならない事は、加害者にも人権があるという事だ。つまり、被害を与えたとはいえ、過重な懲罰を課して行為者のキャリアや人生を破壊してしまってはならないのだ。よって調査は慎重に、公平に行わなければならない。
調査結果によって被害行為が認定されれば行為に応じたペナルティが課されることになるが、あくまで行為の程度に応じたものでなければならない。
職場内のパワハラは基準の設定が難しく、検討会報告書によるパワハラ基準も解釈の幅が広い。パワハラ認定の判断は社内調査の精度如何となるが、これがなかなか難しい。調査が不十分であったり関係者の主観が働けば判断を謝りかねないし、思わぬ結果を招く事にもなる。
早期解決を図る為に少人数で手早く調査を済ませ、少ない情報の中で軽々しく判断してしまってはならない。
マニュアル対応のパワハラ防止策がもたらす職場環境への悪影響
例え仕事に不備があろうと能力が発揮されていなかろうと、個人の尊厳を傷つけるような発言は避けるべきであろう。まして職制が上位であればある程責任も重く、軽はずみな言動が許されない立場にもなる。ここは行為者である部長も認めている部分だ。
しかし調査は第三者、例えば被害者の同僚や飲み会出席者にもしっかり行ったのだろうか。
ハラスメント被害が起きた現場での状況や程度等に関して、客観的な第三者の意見を過不足なく収集し、懲罰の程度を決定したのだろうか。パワハラの事実があったこと、被害が発生したことのみを以て懲罰を決定していないだろうか。
勿論、行為者の実績や立場を斟酌して行為認定やペナルティの軽重を決定すべきではない。行為の事実のみにフォーカスしなければ、判断の公平さを欠いてしまう。
また、処分がなされた後、処分の根拠等について周知は行われただろうか。
ハラスメント防止対策は懲罰を与える為のものではない。職場環境を向上させ、皆が働きやすい職場を創るためにすることだ。
処分の理由を明示し、全員で共有することで未然に被害を防ぐことが出来るようになっていく。そして個人的に重要であると思うのが、処分後は行為者/被害者は勿論の事、周囲の第三者も、いつまでも被害があったことを引きずらず、フラットな視点に戻すといった認識が必要になる。
「あの部長、去年○○でパワハラして降格されたから信じられない」
「あいつこの前○○と言われただけで大げさに騒いで、○○部長をパワハラで訴えた自意識過剰な奴」
などと周囲が言っているうちは永遠に環境は改善されず、職場は我慢大会会場のままだ。これを意識するのは非常に難しいものではあるが、周囲の目を気にしていたのでは被害の申告は出来ないだろう。ハラスメント問題は起こした者だけでなく、その職場全員の問題であるという認識が何より必要であると思う。全員が当事者なのだ。
現在、懲罰を受け異動したその部長は体調を崩し入院されている。また告発したその部下も社内で孤立し、上司はおろか同僚からも相手にされない状況だそうだ。
これでは誰も幸せになれない。
「働きやすい職場」はマニュアルがあれば作れるものではない。そこには【心】がないからだ。我々は職場に【心】を入れ、現在の厳しい商況の中で共に戦う土壌を創っていかなければならない。
誰一人とて、働く事によって不幸になることがあってはならないと強く思う。
管理職というよく分からない人達の話
企業というのは大体が組織をもって事業活動を行い、何かしらを右から左、上から下へ移動させる事で利益を追求し続けている。
規模が小さければ社長が全ての指揮采配を行うが、一定規模の人数になると社長1人で全員の活動を見ていられなくなる。
また、全員が好き勝手な活動をしているより、生産や管理、営業等と分業させ、各々専門性を追求させた方が生産効率が上がる。
こうして組織が出来上がって行くが、そうなると各セクションを束ね、そこで働く人達を見張ってムチ打ったり指導したりする者が必要になってくる。
ウイグル獄長の登場だ。
ピラミッド最強説だった私たち
高度経済成長を支えた日本の数多の企業は、経営トップを頂点としてピラミッド型の組織構成をとった。
日本は古来より上意下達の支持系統が馴染みやすく、また目的や理念と言った曖昧なものに精神を委ねやすい民族性から、文字通り命を投げ出して命令通りに生産活動に没頭した。
几帳面な国民性と「贅沢は敵」という戦前の精神も手伝って、日本の商品は安価で良品質という世界市場での競争優位性を持ち、日本ブランドを確率させた。
ピラミッド型の組織構成は非常に上手く機能し、日本の産業は急速に発展した。
たが今、周知の通りこの競争優位性は失われつつある。
世界はITテクノロジーが進化し、ビジネスはスピードを増し、負荷価値の高いアイデアを誰よりも早く実現した企業が世界規模の市場で経済活動を行う。国境を超えたビジネスは、もはや前提となった。
株価時価総額TOP50のうち約60%はアメリカの企業が占め、その上位企業は物的製品を生み出さないIT系企業だ。
製造大国日本は、もはや見る影もない。
ビジネスの様相は、一昔前からは想像も出来ないほど大きく変わってしまったのだ。
と、ここまでは常識の話。
沈みゆく最適化された世界
超超高齢社会である我が国は、とはいえ一昔前の旧態依然とした組織活動から抜け出せていないのではないだろうか。
組織は依然ピラミッド型が主流であり、指示系統は上から下へ時間をかけて流れ、歯向かう事は原則として許されない。逆三角形やフラット型組織等、ピラミッド以外の組織をとる企業もあるが、絶対数は少ない上に、更に成功例は少ない。
また、グローバル展開しようにも、そもそも外国語を使える日本人の割合が少なすぎる。世界的に珍しい単民族国家ならではの重い課題がのしかかる。
我々はビジネスにおける速さを無くし、代わりに世界が見たこともない速さで年老いていく。
正に危機迫る日本の商況において、組織の在り方を論じ、再構築し、試行錯誤する時間はもう無い。高齢化と人口減少の大波は遠い未来の話では無い。
ならどうするか。
先人達の叡智により積み上げられたこの日本ピラミッド構造を維持しつつ、キングダムの飛信隊よろしく、社員一人一人を更なる高みに進化させ、組織そのものを今より一気に強くするのだ。それが出来なければ我々は明日負ける。一夜で覚醒し、敵より強くなる以外に勝つ道はない!
(管理職)
そんな事出来たら誰も苦労しねーっつーの。
一体どーやったらそんな事できるんですかね?
(社長)
知らん!お前のチームだろうが!
……今の管理職の皆さん。こんな感じじゃないですか?間違ってたらゴメンなさい。
管理職という悲劇の本当の姿
まず第1に、キャリアは断絶している、というのがある。人事の中では比較的知れた話である。
どういう事かと言うと、営業で優れた成績を残す者が、マネージャーとしても優れているワケでは無いという事だ。
営業スキルは営業スキルであり、マネジメントスキルとは別物なのだ。逆に、現場ではパッとしなかった人が優れたマネジメント能力を発揮する場合もある。
だがしかし、旧態依然とした我が国の中小企業ピラミッダー達は依然として現場スキルの延長線上にマネージャーを据えたがる。
ハッキリ言って、これはかなりイビツだ。
優秀な現場担当者は自身の成功体験を数多く持っている。そんな人がマネージャーに任命されると、部下にもその成功体験を基にした行動を指示指導するようになる。だが、成功パターンや結果の出し方は人によって異なっているため、自身の成功体験を模倣させても結果に繋がらない場合が多い。
「なぜ言った通りに出来ないんだ!」は間違いであり、そもそも他人に自分と同じ事は出来ないと思うべきだ。
「1を聞いて10を知れ」というのも無理があるだろう。エスパーでもない限り、知らないものを知りようがない。徒弟関係のようなマネジメントは現代にはミスマッチだ。
キャリアの延長でマネージャーに任命される人は往々にしてマネージャーになるための訓練や教育を施されないまま、マネージャーとして就任し、結果責任を負わされる事になる。上位レイヤーからは数人~数十人のチームでの結果を求められ、自分が成功した方法しか知らないマネージャーは自分のしてきたやり方でチームメンバーに行動させる事で結果を出そうとする。他のやり方を知らないのであれば当然の流れだろう。結果として、成果が上がらなチームの空気はどんどん澱んでいく。
第2に、管理職は求められる結果に応じてマネジメントするパターンが異なる。
ざっくり分けると、安定期に入った事業であれば、今より1円でも収益性を高めるために非効率を徹底的に洗い出し、無駄を省き、与えられた資源で収益を伸ばす、所謂「管理型」マネジメントが求められるが、事業が始まったばかり、或いは衰退期に入った事業では、一般的には効率を求めず、行動変容を求め、試行錯誤する「リーダーシップ型」マネジメントが求められる。
両者に必要な能力やキャラクタは全く別物である。
管理型は客観的数値根拠から無駄を見つけ、少しづつでも収益を上げる数値管理型能力を要するのに対し、リーダーシップ型は周りからの反対を気にも止めずに未開の領域にズンズンと入り込む動機付け能力が必要だ。
大袈裟に言えば、管理型のマインドは「非効率は敵であり、結果が確実でないものは排除」であり、リーダーシップ型のマインドは「結果はどうあれ、可能性があるものにはどんどんトライする」であろう。
この辺りが全く考慮されず、特性や志向性を無視し、現場スキルの延長でマネージャーに任命された管理職とその現場スタッフはたまったものでは無い。
ある日突然、経営トップからは理解不能な命令が飛び、現場からは不平不満が噴出する。
チームの成長は停滞し、結果の出せないマネージャーは部下の不満に晒され、環境が悪化したチームではハラスメント問題が徐々に顕在化してくる。いつの間にか車内は機能不全に陥り、経営トップがリーダーシップを発揮して行動変容を促すも、ついてくる部下はもう1人も残っていない、といった状態にもなりかねない。
…何が、そして誰が悪いのか?
1つは管理職に求められるものをしっかり定義しなかった経営トップであり、1つはマネジメントスキルを勉強しない管理職、これに尽きる。
管理職に任命されるという事は、別に人より偉くなったという事では無く、求められる役割が変わったのだという事をマネージャーは強く意識すべきだ。雇用契約に乗っ取って働く会社員にとって、同じ労働契約で働く従業員間に於いて偉い偉くないの差は生じ得ない。
求められる役割が変化した以上、新たに自主的に学ぶ必要がある。キャリアは断絶しているのである。現場で成功した要因は、恐らく周りのライバルより熱量をもって学習してきた結果であろう。
現在、自身の置かれている状況を冷静になって見つめ直し、求められる役割を定義し、1年生の気持ちを戻って新たな学習の1歩を踏み出そう。そこに自信はあっても傲りがあってはならない。学ばない管理職は、チームにとっても会社にとっても不都合である事を、しっかりと認識しよう。
と、現在学ばない管理職の代表格である私が自戒の念を込めてブログという形でしたためてみた。
部下のみんな!ホント頼りないマネージャーでゴメンちゃ♡(・ω<) テヘペロ